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上野公園・清水坂・上野桜木 2008年11月21日(金)

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神田駅から例の不明社( 神田東松下町)を通る。
敷地内の椅子?は六角形の灯籠だったのか?

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神田ふれあい橋から和泉橋を望む。先日のボートの折り返し地点でした。
外神田3-12。建設中の住友不動産秋葉原ビル(日本通運旧秋葉原本社ビル、
ヤマギワ別館跡地)。献花台はもう撤去されているみたいだな。

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秋葉原UDX前の千代田海藻(外神田4-2-6)。 亀住稲荷(外神田5-4-8右)。

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この細身のお狐さんは昭和45年2月吉日 鈴木静 奉納。

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この水盤は大正14年5月神田區亀住町の中野保温コンクリート工業所の奉納。

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上野中通りからアメ横の道に摩利支天徳大寺(上野4-6-2)があった。

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左から日蓮聖人、七面大明神、妻戀地蔵。

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浄行菩薩。

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上のタワラ屋、松茸大人気。   不忍池は蓮枯れの冬。

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忍岡穴稲荷へ。

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穴の中の御神体は、ストロボがケラレるのでカメラを逆さにしてやっと撮影。


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伊藤博文の神徳惟馨の扁額。駒込の染井稲荷にもあるみたいだな。

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水盤は大正13年1月14日で奉納者は不明。穴稲荷の上にある社はこのくらいしか見えない。

花園稲荷神社の御縁起 より御由緒
御創祀の年月は不詳です。古くから此の地に鎮座し、忍岡(しのぶがおか)稲荷が正しい名称ですが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。承応三年(今から三百四十年前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が霊夢に感じ(家光の命とも云う)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護(まもり)の神としました。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られています。後、明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衞等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。(旧社殿は俗称お穴様の処です)
お穴様の左奥にありますお社は、古書に弥左衞門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が棲む処が無くなるのを憐れみ、一洞(ほこら)を造り社を祀ったと云われます。
社地はお穴様を中心にし約二千坪(今の精養軒や韻松亭を含む約六六OO㎡)ありましたが、明治の上地の為、現在は五條天神と併せて約一千坪になりました。



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公園に面した鳥居は昭和十四年五月吉日建立。
狛犬はなんと宝暦三癸酉十月吉日(1753年) 願主野木氏。

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上野大仏では絵馬を奉納する人が。合格祈願みたいだな。


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動物園の池之端門から出て(年間パスポートあるので)、ホテル鴎外荘と
旧忍旅館を過ぎて清水坂を登る。

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曲がり角にさしかかるまで見えなかった洋館。塀まで菌糸に覆いつくされたような。

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煉瓦造りか。坂の上に護国院大黒天。このあたりに清水門があったわけだ。
寛永寺の子院としては最も開放的な境内だ。

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◇ 護國院は、 東叡山寛永寺の子院のひとつで、 寛永2年 (1625) 天海僧正により東叡山が開かれたのと同時に、 同僧正の命を受けた開基生順によって東叡山最初の子院として建立されました。 その後、 寛永7年 (1630) 天海僧正により境内に一堂が建立されたのですが、 そこに古佛師春日の作といわれる釈迦文珠、 普賢の三尊像を安置し、 本尊としたところから、 このお堂は釈迦堂と名づけられました。 同時に護國院はこの釈迦堂の別当寺となり、 管理運営を任されるようになりました。 この釈迦堂は壮麗を極めたもので、 草創期の東叡山においては、 第一の大建築物であり、 その後元禄に根本中堂が完成するまでの間、 東叡山の総本堂の役割を果していました。 護國院は創建当初、 上野の山の東北、 今の國立博物館の裏あたりに位置していましたが、 慶安4年 (1651) 三代将軍家光の霊廟を建立する際、 幕府の命により北寄りに移築され, 宝永6年(1709) 五代将軍綱吉の霊廟建立にあたり清水門の傍らの現在の場所に移りました。 後享保2年 (1717) に釈迦堂は焼失、 同7年に再建され、 近代にはいってからは、 昭和2年、 東京市立二中 (現在の上野高校) の創立にあたり境内地の大半を譲渡し、 釈迦堂を現在の位置に移動したのを機に当院の本堂となりました。 永い年月を経て、 創建当時の壮麗な姿は失われたものの堂内のあちこちには当時を偲ばせる貴重な壁画などが現存しています。  この釈迦堂において、 寛永 16 年に大坂城落城 25 年にあたって、 豊臣、 徳川両軍の霊を弔うため、 大念佛法要が執り行われたのですが、 この功績を称えて三代将軍家光公より、 藤原信実卿筆と伝えられる大黒天の画像が寄贈されました。 それ以来この尊像をお祀りし、 護國院大黒天として信仰を集めるようになりました。 とりわけ正月三日の福湯の行事は、 江戸名所図会、 江戸砂子にある如く有名でした。 またこの大黒天は谷中七福神のひとつとしても数えられ、 正月には多くの人が参拝に訪れています。天台宗東京教区



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三遊亭金馬、一龍斎貞丈、相模太郎、三升家小勝。
築地新喜楽があった。

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武田一義 大映京都撮影所長と長谷川一夫。

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圓珠院。
◇ 寛永寺が徳川家によって創建されると、 有力大名は競って上野山内に、 将軍家の法要参列のための装束着替所としての寺院を建立しました。 これらの寺院は子院 (宿坊) と呼ばれ、 その数は三十六坊にも達しましたが、 圓珠院もそのひとつとして、 承応元年 (1652) に建てられました。 開基檀家は長州 (萩) 藩第二代藩主毛利綱廣公であり、現在の東京国立博物館の後側に位置する寛永寺第二霊園のあたりに建立され、 境内地は約 3,000 坪でありました。 そして延宝8年(1680) 四代将軍徳川家綱公の霊廟である厳有院廟を造営することになり、 その用地となったため現在地 (東京芸術大学音楽部横の上野桜木一丁目) に移築されました。 ところが元禄 10 年 (1697) に火災で全焼しましたが、 直ちに長州藩第四代藩主毛利吉廣公によって旧来のように復興されました。 しかしながら幕末の戊辰戦争の結果、 明治政府に寛永寺境内が上地され上野公園となるや、 圓珠院境内地も縮小を余儀なくされ、 現在は 350坪ほどになっています。 しかし山門である総欅造の薬医門はそのまま現在も残され、 創建当時の面影を今日に伝えています。
天台宗東京教区

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養寿院(上野桜木1-15-3)。子院ながら開放的とも閉鎖的とも言いにくい。

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笠森稲荷尊の奉納額というのはどういうことなのだろうかと一瞬迷った。昭和三十年。
文楽、志ん生、円歌、圓生、落語協会云々。

◇ 養寿院はその山号が示すように、 徳川歴代将軍の菩堤寺であった寛永寺の子院で、 寛永年間初期に創建された寺です。 寛永寺の多くの子院は、 当初諸大名の菩提寺または宿坊として建てられたものでした。 慶安4年 (1651) に大猷院 (三代将軍家光) 様の御廟が出来てからは、 将軍様のお成りが年中行事になり、 諸大名もこれに従って寛永寺への参詣を例とするようになります。 その時、 参列の諸大名は、 自分の利便のために 「宿坊」 とか 「宿檀」 といった言葉をあてはめた 「装束着替所」 として、 江戸中期 (1720 年頃) までの間に 36 坊もの子院を次々と建立したのです。
 養寿院もその中の一子院でありまして、 松平筑前守及び越後松平光長を宿檀として、 開基第一権大僧都廣海和尚によって建立された寺であります。 創建当初、 寺は旧寛永寺地域 (上野の山) の西辺にありましたが、 江戸の大火や明治維新後の寛永寺の再建などにより山の中を二転三転し、 現在の寛永寺裏側に大正6年に移転改築をしたのであります。 その後、 再び東京大空襲で焼失しましたが、 当地に再建し、 順次整備を行い現在に至ったのであります。 ご本尊は当初、 観世音菩薩 (准提観音) でありましたが、 現在は阿弥陀如来 (江戸時代の坐像) であります。 江戸時代、 江戸百観音の二十三番札所として、 上野では清水観音堂、 護国院の観音様とならんで信仰を集めていました。
(以下略)
○笠 森 稲 荷(非公開)
 明治以後、 江戸百観音の札所として信仰を集めていた当院に笠森稲荷尊が遷されました。
門前に美人で評判の茶屋ができたりして参詣で賑わったと伝えられ。 江戸から明治、 大正と唄いつがれてきた手鞠うたに 「向こう横丁のお稲荷さんへ、 一銭あげて、 ざっと拝んでお仙の茶屋に……」 とあります、 この笠森稲荷の本尊は今の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られておりました。 明治3年この寺が廃寺になり現在は養寿院に遷つされております。

天台宗東京教区

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水盤の奉納は享和三癸亥八月吉日。

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津梁院(上野桜木町1-14-29)。すぐに玄関で参拝するところはない、
と思ったらこの大理石のレリーフは何だろう。

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ともあれこれで現存する寛永寺の子院19坊すべて回ったことになる。
久しぶりに谷中墓地の徳川家墓地改葬現場に行く。

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すでに工事は終わっている。 長耀山安立院(谷中7-10-4)。

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            さて大仏の補修中以来の護国山天王寺に。

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学童守護地蔵尊。裏の銅版にいわく。
次男眞清ハ昭和九年一月二十九日年十歳長男
眞廣ハ同年十月二十日年十三歳皆不幸先後シ
テ市川尋常高等小學校ノ校庭二於テ遊戯中不
慮ノ死二遭フ予悲悼痛歎ノ餘感スル所アリ茲
二地蔵尊ヲ建立シテ亡児ノ遺霊ヲ慰メ又廣ク
一般學童ノ守護ヲ祈念セント思ヒシニ會親戚
友人間二於テモ同様ノ議起リ遂二建立ノ計畫
一決スルヤ諸方ヨリ喜捨セラレタル者萬餘二
上ル乃チ彫刻家江川治氏二嘱シテ竣功ス願ハ
クハ慧光ヲ無量二照シテ大悲愛愍ヲ垂レ給ハ
ンコトヲ

昭和十年十月二十日 黒川眞前撰文
  佐藤仁之助 敬○


調べたところ、「大法輪」昭和10年12月号に、
学童守護地蔵物語という記事があるようだ。

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このお社は名称不明。

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門前の地蔵堂。
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  1. 2008/11/21(金) 23:05:12|
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