POCHIPRESS PHOTO+

見たものの記憶。見るものの記録。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

神田から上野公園 2008年10月31日(金)

_DSF4796.jpg

_DSF4804.jpg _DSF4807.jpg

_DSF4809.jpg _DSF4816.jpg

_DSF4813.jpg

_DSF4823.jpg _DSF4826.jpg
伊勢丹発祥の地
東京市神田区旅籠町二丁目4番地(現・千代田区外神田1-5)
創業は明治19年11月5日。

_DSF4833.jpg

_DSF4837.jpg _DSF4844.jpg

_DSF4845.jpg _DSF4848.jpg

_DSF4879.jpg _DSF4890.jpg

_DSF4907.jpg

_DSF4913.jpg _DSF4915.jpg

_DSF4918.jpg _DSF4919.jpg
東叡山寛永寺林光院(上野公園15番9号)
ここから寛永寺の子院15院をめぐります。ほとんど情報がないので、
天台宗東京教区の解説をそれぞれに附載します。
◇ 当院は東叡山・寛永寺の子院です。 開基の宣雄大僧都は備前の国、 岡山の人で光珍寺の澄宣大和尚の下で修行に励んでいましたが、 当時、 江戸で評判の高い寛永寺を開かれた天海僧正の高徳を慕って江戸へ出て僧正のもとで修行する事が許されました。  寛永初期、 宣雄和尚は今のJR・鴬谷駅上の台地に草庵を建て林広院と名づけました。 慶安4年(1651)ご逝去の徳川家光公をまつる寛永寺の大猷院霊殿が建立されるにあたって当院の敷地が選ばれ、 西北の地に移転しました。 当時の林広院は埼玉・忍(おし)の城主、下総守・松平忠弘公の宿坊で公は宣雄和尚への尊崇の念厚く、 草庵を改修し僧糧100石を寄進されたり、 その他多くの業蹟を残された方で、当院の歴史上、 忘れることのできない篤信者であります。  宝永2年 (1705) 7月、 輪王寺宮・公辨法親王のご推薦により、 当院は六代将軍・家宣公のご生母、 長昌院殿の霊廟の別当寺と定められ、 450 石を賜りましたが、 時の住職、 第四世・智顕和尚は従来の寺名、 林広院を法華経序品 「處林放光」 の偈文に基づき、 現在の名称、 林光院に改めました。  宝永6年 (1709)、 当院は公辨法親王の命により6年ぶりに大改修が行われ、 正徳2年 (1712)、 公儀により再び官租 100 石が加増され、 併せて 550 石となり栄えましたが、 慶応4年 (1868) 5月の戊辰の役で寛永寺の諸堂宇は大半が焼失し、 各子院は縮少や移転を余儀なくされました。  明治 35 年 (1902)、 上野桜木町 48 番地に移った当院は更に大正4年 (1915)、 同町9番地に移転、 後に輪王寺門跡になられた当時の長沢徳玄住職建立の新院宇は惜しくも昭和 20 年 (1945) 3月の東京大空襲により全焼しました。 第2次大戦後は寛永寺住職の住居寺である上野公園の凌雲院にしばらく仮寓しましたが、 昭和 25 年 (1950) 8月、 現在地に先代住職が木造で再建の後、 平成元年(1989) 11 月、鉄筋コンクリート総2階建ての現本堂や庫裡などが完成、 今日に至っております。 これもひとえに檀信徒の方々の浄財御寄進のお陰であります。

本尊 阿弥陀如来 (旧・大慈院本尊)
脇侍 観世音菩薩 勢至菩薩

○文化財史跡
林光院の表門
 当院の表門は江戸時代、 諸大名が江戸に居住するために幕府が与えていた江戸藩邸の門のひとつで、 もと徳島藩の某大名 (25万7,000 石) 所有の中屋敷御庭仕切門で昭和30年、 当院に移築したものです。  仕様は総欅造、 銅板葺、 平唐門、 平面は四脚門で側面に唐破風をつけています。 主柱は円柱上部粽柱、控柱は方柱面取上部粽付、 ともに礎石建ちです。 主柱間は内法貫虹梁形、 頭貫木鼻付でつながれ、 主柱、控柱間は腰貫、 飛貫、 頭貫でつないでいます。 中備に波形の蟇股を置き、 男梁上では主柱に笈形をつけています。 唐破風の兎毛通は牡丹の彫刻とし、その上の拝みには若葉と○の中に卍 の飾金具があります。軒は一軒疎輪垂木で両脇壁の上部櫛型連子窓は現本堂完成の際に復元しました。


_DSF4927.jpg _DSF4933.jpg
東叡山寛永寺寒松院(上野公園15-11)
◇ 寒松院は、 文化の森・芸術の森として知られる上野公園の一角にあります。
 寺名の由来は、寒松院開基である津藩主・藤堂高虎公のご法名をそのまま寺名にしたものです 。高虎公はもともと他宗門の方だったのですが、徳川家康公が75歳の生涯を終えられようとしていたときに、高虎公の手を取って「あなたがいなかったら天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝しています。ただ、心残りはあなたと私とで宗門が違っているため、来世の浄土が違ってしまいます。それを思うと辛く寂しい」と涙を流されました。それを聞いた高虎公も涙を流し「私はまったく至らない者ですが、上様と同じ天台宗に改宗いたします」と即座に得度をし、「寒松院」の法名を戴いたのです。このとき法名を授けたのは、家康公が篤く信頼していた天海大僧正でした。
さて、高虎公は現在の上野動物園から東照宮にかけた場所に下屋敷があった大名であり、家康公を祀る上野東照宮が建立されたときに、江戸市民が参詣する際の便を図って屋敷地を献上しました。同時に寒松院を東照宮の別当寺として建立したのです。寛永4年(1627)のことでした。
その後、寒松院をはじめとする寛永寺の諸堂は、明治元年(1868)戊辰戦争の際に彰義隊の立てこもりにより、多くが焼失しました。跡地は上野公園となり、寒松院は明治21年(1888)現在の寛永寺の裏手に、境内360余坪の寺院として移りました。 しかし昭和20年(1945)には太平洋戦争の戦火に遭い再び焼失、現在の場所で再建され、今日にいたっています。
ちなみに高虎公の霊は、 上野動物園の旧正門を入って正面、 石塀をめぐらせた一角に藤堂家の墓所 (非公開)があり、その中央に眠っています。また、一説によれば「上野」という地名も、高虎公の城地である伊賀上野からつけられたと言われています。

○文化財史跡
藤堂家墓所 (台東区有形文化財)
宝篋印塔型墓石 (供養塔を含む) 14 基
灯籠12 基


_DSF4942.jpg

_DSF4943.jpg _DSF4958.jpg
東叡山寛永寺真如院(上野公園15番17号)
◇ 当院の歴史的正式な資料は明治10年当時の東京府へ提出した寺院書上書に依るものです。
 武蔵国豊島郡上野桜木町四十番地。
 府下上野桜木町。
 一、 寛永寺々中 天台宗 真如院
   開基 権僧正 豪俔
 比叡山雙嚴院より、 寛永三年、 紀伊国主徳川頼宣当院を創建するに当り、 転住したものです。
 慶応4年5月15日彰義隊の戦争により焼失、 後明治5年に再建、 大正3年桜木町九番地へ移転、 紀伊徳川家の寄付に依り復興したが、 昭和 20年3月 10日の米軍大空襲により、 一坊を焼失しました。昭和 24年上野桜木町八番地へ移転、 平成元年に一応の復興を見ました。

○文化財史跡
1. 北白川宮能久親王建立銘のある、 地蔵様の石仏一体、 (明治 15 年)
2. 元禄年間の銘のある、 庚申様の石仏
(高さ1m 50 ㎝) 一体


_DSF4960.jpg
東叡山寛永寺福聚院(上野公園15番号)
◇ 記載なし。

_DSF4969.jpg
東叡山寛永寺吉祥院(上野公園15-21)
◇ 寛永寺山内寺院の一。 寛永初年、 権大僧都詮長の開基、 檀越水戸藩始祖、 徳川頼房の寄進により創建される。 以後、 水戸侯及び讃岐松平家を宿檀とし幕末に至るも戊辰の役に兵火にかかり、 後に、 再建を許され現在地に移る。

_DSF4973.jpg
東叡山寛永寺泉龍院(上野公園15-23)
◇ 寛永寺山内寺院の一。 寛永年間初期、 権大僧都慶倫の開基による。
 松平若狭守康信 檀越となり当院を建立するも、 その後、 寺地は山内を変遷し、 ことに元禄十一年の 「勅額火事」 の後には、 俗称 「下寺」 の一画に所在し、 さらには、過ぐる戊辰の役 (上野戦争) において、 彰義隊の宿営たるをもって消失し、 後に再興がかない、 現在に至る。
本尊 阿弥陀如来 (室町期)
寺宝 (伝) 恵信僧都筆 二十五菩薩来迎図他を有す



_DSF4977.jpg
東叡山寛永寺修禪院(上野公園15-)
◇ 記載なし。

_DSF4978.jpg
東叡山寛永寺春性院
記載は以下のみ。
◇開  創  延宝8年 (西暦1680年)
◇本  尊  阿弥陀如来


_DSF4983.jpg
東叡山寛永寺現龍院(上野公園15-25)
◇寛永寺山内の子院の一つとして、 権大僧都什誉師が創建した。 開基を真岡藩主の稲葉佐渡守正成とするため、 寛永初年の創建とされているが、 実は前夫人の春日局(三代将軍家光の乳母)が天海僧正とはかって、 正成を弔うために新規に建立した寺だと考えられる。 春日局と天海僧正はかねてより昵懇の間柄であり、 こうしたことから、 僅か2万石の正成の法名を天海僧正自からがつけて、 春日局が一院を建てたと見るべきであろう。  開基の什誉は千葉三塗台 (長福壽寺) の学頭を兼任した学僧であった。  第三世の亮伝大僧正は、 初名を泰と称し、 天海伝の内の 「泰伝」 の著者でもある。 又、 師は当代随一の碩学で、 慶安4年の家光の死に殉じた老中堀田正盛、 阿部重次の両者をはじめ、 内田正信、 三枝守恵らの人々が、 当院への埋葬と亮伝師の引導を望んだのも道理である。 このことは、 春日局縁りの堀田家の仲介と思われるが、 亮伝師の奔走の結果、 この未曽有の願いは入れられて、 今日に残る殉死者の墓ができた。 亮伝の実力の程が窺える話である。  その後、 元禄九年、 宝永六年、 明和九年にそれぞれ罹災したが、 その度毎に復興された。 創建の地は現在の当院墓地の一帯で、 享保五年に山下の下寺通りに移り、 戊辰後は谷中の浄名院裏をへて、 大正三
年現在地に定着した。  歴代住職には高僧が多く、 学頭として十一代将軍家斉の葬儀を主導した鈴明大僧正、 執当の鈴然僧正、江戸城紅葉山別当の公副僧正、 天台宗参務から臨時宗務総長をへて、 東叡山輪王寺門跡、 寛永寺住職となった浦井亮玄大僧正などがいる。


_DSF4986.jpg
東叡山寛永寺等覺院
◇記載なし。

_DSF4996.jpg
東叡山寛永寺東漸院(上野公園16-3)
◇開  創  慶安2年 (西暦1649年)
◇本  尊  薬師如来
◇ 慶安2年 (1649) 水谷(みずのや)伊勢守勝隆が権僧正宣祐の為に小院を構えました。 宣祐の素志が 「東来弘法」 であるによって、 「東漸」 を院号としました。  同4年徳川三代将軍家光の影殿新建の命があり、 別当寺となりました。別当料として 1,370 石を給せられました。 後、 文恭院殿 (11 代) の別当も兼ねて、 更に供米 700 俵を加増されました。 元禄 11 年 (1698) 火災に罹り再建、 宝永6年 (1709) 再火、 又重建されました。  慶応戊辰年 (1868) 変革の後公園地となり、 院宇を取除かれ、 明治9年 (1876) 上野桜木町に地を得、同 22 年 (1889) 更に同町 16 番地に寺宇を改築しました。 大正4年 (1915) 上野桜木町9番地に移転改築しましたが、 昭和 20年 (1945) 3月 10日の空襲で全焼しました。  昭和 22年 (1947) 桜木町7番地の廃寺となった旧宝勝院建物を与えられ、その後増改築をして現在に至りました。


_DSF4997.jpg
東叡山寛永寺元光院(上野公園16-24)
◇開  創  寛永年中 (西暦1624~1643年)
◇本  尊  阿弥陀如来
◇ 寛永2年に徳川幕府に依って寛永寺が創設され伽藍が整備されると共に、 有力大名等の力を得ながら、寛永寺の子院数も増加し一山としての形態を整えていく。 元光院もその子院の一つとして、寛永年中に創設された。  開基は、 権僧正長清である。 長清は 15 歳で、 浅草東光院詮長から、 薙髪を受け、 慈眼大師の弟子となる。 18 歳で、 備前守神尾元光公の給資を得て、 比叡山で修行をするが、 22 歳の時に、 慈眼大師に召還され、 神尾元光公の助力で現在の東京芸術大学の敷地に自ら元光院を創建した。 元光院の寺号は、 この創立者の神尾元光公の名前に由来する。  寛永寺の諸堂及び子院の多くは、 度重なる江戸の大火地震の類焼等から、 上野山内を転々としているが、 当院は江戸時代を通して、 創建当初の芸術大学の敷地を遠く離れることはなかった。  大正3年に現在地に移転改築をする。  今の元光院は、 鴬谷駅から、 両大師に至る中程にある。 現在十九ケ院ある子院のうち、 江戸時代の約二子院の境内地に十三子院が隣接している。  春には、 鶯の囀りが聞こえ、 かつての寛永寺境内地は、 上野公園動物園博物館など、 文化施設が建設され行楽客が多くおとずれる名所である。


_DSF5003.jpg
東叡山寛永寺覚成院(上野公園)
◇開  創  寛永11年 (西暦1634年)
◇本  尊  薬師如来
◇ 覚成院は寛永寺の子院の一寺にて、 現在は国立博物館の東側に他の子院 14ケ寺と共に位置します。 当院は寛永 11 年 (1634 年) 雅楽頭、 酒井忠世公が、 開基忠俊に帰依し、創建されました。以降歴世檀信となり、 百石の邑を寄せて永く資糧を賜る。 又宝永元年 (1704 年) 式部大輔榊原政邦公檀越となり、 20 人扶持を歳々賜る。 正徳3年 (1713 年) 信濃守小笠原長圓公又檀越となり 15 人扶持を歳々賜る。 又寛延元年 (1748 年) 大久保、 田沼、 両侯新に檀越となる。 やがて幕末を迎え、 慶應4年 (1868 年) 5月 15 日戊辰戦争 (彰義隊の戦い) により当山は戦争の巷となり、 当院も焼失し一朝烏有に帰す。  その後明治 18 年上野桜木町 28 番地に再建、 同 35 年桜木町 47 番地に移築する。 更に大正3年9月、 現在地に移築する。 その間、 関東大震災、 第二次大戦には災害を免れ今日に至ってます。
年 中 行 事
両彼岸盆法要


_DSF5007.jpg _DSF5009.jpg

_DSF5019.jpg

_DSF5088.jpg
東叡山寛永寺見明院(上野公園16-18)
◇開  創  寛永末年 (西暦1640年代)
◇本  尊  千手観音 (立像)
◇ 東叡山 寛永寺の子院
 盛憲僧正により創建される。 肥後守保科家が檀越となるが、 元禄11年罹災により焼失するも、 保科守重により再建、 後保科家祈願所となる。 明治5年桜木町に移轉し、 明治23年に亦移建する。 大正3年上野桜木に移轉改築するも、 昭和20年3月の戦災により焼失する。 昭和23年寛永寺より本尊千手観音を迎えて現在の地 (上野公園) に再建する。  昭和28年広尾島津家上屋敷より本堂を移轉改築する。


_DSF5021.jpg _DSF5025.jpg
東叡山寛永寺本覚院(上野公園)
◇開  創  寛永14年 (西暦1637年)
◇本  尊  釈迦如来
◇ 本覚院は、 江戸城内紅葉山山王社移転に伴い、 東叡山寛永寺子院・山王社別当として寛永 14 年 (1637) に創建されました。  それまで江戸城内の鎮守として城内に祭られていた紅葉山山王社に代えて、 東照宮をもって江戸城の鎮守とするという三代将軍家光公の命によって、 旧山王社は寛永寺内に移転されることになりました。 その際、 寛永寺開基・天海僧正ご自坊を以ってその地に当て、 天海僧正の弟子であり、 又、 紅葉山山王社別当寺・城琳寺住職であった晃海僧正 (初代寛永寺執当) を住職とし、 肥後細川家が檀越となり、 山王社別当として本覚院が創建されました。



_DSF5031.jpg _DSF5083.jpg

_DSF5044.jpg _DSF5046.jpg

_DSF5055.jpg _DSF5057.jpg

_DSF5059.jpg _DSF5072.jpg

_DSF5065.jpg


_DSF5119.jpg _DSF5128.jpg
墓地を通って寛永寺へ。徳川綱吉公勅額門。

_DSF5164.jpg
スポンサーサイト
  1. 2008/11/01(土) 00:59:03|
  2. 東京散歩
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<神田小社めぐり 2008年11月4日(火) | ホーム | 日本橋小舟町と神田界隈 2008年10月29日(水)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://pochipress.blog20.fc2.com/tb.php/71-fb73300d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

Pochi

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

カテゴリー

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。