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嬬恋の下屋家と熊野神社 2009年11月25日(水)

こちらもキャプションは後日だ。11月26日追記。

下屋春美さんを講師として『下屋家の歴史とご自宅周辺見学会』
が開催されました。

112509 103 
三原地区から平原火砕流台地を望む。
1783年8月5日この断崖から吾妻川に鎌原土石なだれが落下した。
参考:浅間火山北麓の電子地質図 早川由紀夫


112509 008 112509 015 
重兵衛というそばやの横に横浜開港中居屋重兵衛生家とある。 
坂上に中居屋旅館があった。営業はしていないが。

112509 024 112509 064 
下屋邸(棄城庵山荘)の門構え。

くらしの歴史 三原荘の海野氏と下屋氏より(配布資料・原書記載なし)
平安時代の末のころ海野幸房が吾妻郡に侵入し、三原の竹の下、下屋に
居館を構えて三原荘の荘園領主として、下屋将監幸房を名のった。その子
孫は代々修験者であったという。(中略)
下屋家の村造りのしくみは、下屋一族を一部部落をに分家させてその一族
を中心とした血族統治方式を行っていった。この下屋氏の一族の筆頭が鎌
原氏である。(中略)
この下屋一族の浅間野、白根山麓、西吾妻全域に栄え、のちの村々を開拓
していった証明をする貴重な文書が下屋文書であり、その修験道を中心とし
た特殊な集団支配についての歴史研究の資料としても、日本の中世の研究
資料として価値の高いものである。

松島榮治
078.下屋家文書
より
 三原の下屋悦夫氏家には、代々伝わってきた南北朝期を含む室町時代の
18通にのぼる古文書がある。それらは、日本固有の山岳信仰と仏教の教え
が混ざりあって成立した“修験道”関係のものであり、嬬恋村ではもちろん群
馬県としても極めて貴重な史料である。
 下屋家に伝わる古文書は、後に写されたとみられる建久5年(1194)のもの
は別として、南北朝期の貞治元年(1362)のものが2通、嘉慶2年(1388)のも
の1通、応永年間(1394~1428)のもの8通、文安元年(1441)のもの4通など
がある。これらの多くは“旦那譲状”とされるもので、自分で所有する修験道の
檀家(宗徒)の一部を分族に譲渡するというものである。
http://www.kazeno.info/matushima/23-bunka/078.htm

門前の坂は旧真田道ということで、降って車道に出るところに湧水があった。
途中の斜面に卵塔をふくんだ下屋家の墓地があり、ばんばと呼んでいるとこ
ろと説明があったが、より広い領域が馬場であったということなのだろう。

清浄法水の伝承(*法は氵に厺)
弘法大師が杖を突いて湧出た泉といわれ刻んだ梵字と名称が遺る
泉は思い川となり田畑を潤し中居村赤羽根村は境界とした
源頼朝は巻狩の折法水を愛飲し馬場を設けた

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三原三十四番観音札所 第十二番 岩井堂(三原阿弥陀堂)

案内された畑地はもと修験寺院と神社のあったところで、1783年の
山押しで寺院は流され、地蔵などの出土はあったがご本尊の大日
如来は行方不明。カロートに収めた甲冑武具はこのあたりに埋まっ
ていると思われる。


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棄城庵別邸。この中で質疑応答四方山噺などありました。
古文書の保管の話で、蔵の桐箱に入れてまさかの時は持って逃げる
ということ、20年ごと?紙背に裏打ちしていることなどを聞いたカミさんが、
下屋氏に虫干しのことを聞くと、夏にするが他人には見せぬという。
古文書館でコピーが見られるそうですが、われわれ夫婦はホンモノにしか
興味はありません。南北朝期の古文書など、実見する機会はまずないでしょう。

ところで嬬恋の為政者の文化レベルの話から土建屋の天下だった時代の話と
脱線していったのですが、よそから来て筵がけの小屋住まいから身を立てた
土建屋がこの土地のトップとなり、村政をも牛耳っていった物語には別の意味で
の感慨がありました。
権力は外から来るのであって、土地に自生するものではないと。
野地占定または山地占定という用語がありました。荘園の土地を区画するため
の行政用語といえますが、その実質は入会地の囲い込みで村落を支配するための
手段でした。

「中世的世界の形成」石母田 正著 岩波文庫 1985.より
入会地(中略)は村落民の生活に必須な生活資料の採取地であり、自己の耕地へ
の往還であったが、当時の官符が語る如く新たに侵入せる土地所有者は村人の
鎌・斧・馬牛を奪い或いは灌漑用の河沼を差押えることによって百姓の農耕を妨げ、
また往還の道を塞ぐことによって従来の自由な入会地使用を妨害しようとした。(p.31)

外から来た災いがやがて慣習となり歴史となり、守るべき郷土となる。
これが歴史を知り、学ぶために忘れてはならない教訓のひとつです。


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棄城庵山荘に戻って見学会は終了です。下屋さんありがとうございました。
蔵の家紋はこの位置からでないと全体が見えなかったのですが、光琳梅鉢
のようにも見えますが五放射相称ではないようです。

熊野神社(群馬県吾妻郡嬬恋村門貝鳴尾)
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奥の院(本堂に掲げられていた木版より)
昔から語りつがれた話しによると此の岩穴よりニワトリを放した処越後の国山高郷
に出て、トキをつくったと語りつがれている.岩の壁には梵字が刻まれているが、此の梵字は
佛の字と言はれているが意味はさだかでない.修験者か又は参拝者の手によって刻
まれた幾つかの字の中には長い年月の間山火事、又は風雪によって朽ち果てた残る字が見ら
れる中でも第九五代花園天皇北條時氏の文保三年と刻まれた字が残る.
六六〇年余り前の頃である叉岩の中央には修験者の修行した
台座が残っているのも面白い.
門貝 氏子

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さかさ杉

112509 230
火山博物館で浅間を眺める。
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