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お茶あがれ地蔵と最上稲荷東京別院妙経寺 2009年10月30日(金)

お茶あがれ地蔵(豊島区上池袋3-47-5)
103009 677 103009 689
『悲恋の伝説 池袋のお茶あがれ地蔵』 (北村正治著、 1960)という
ガリ版刷りの小冊子があります。文字起こしが行方不明なので後日。
(11月1日追記:以下全文転載。著作権については未確認です。)

武蔵国豊島郡の中心池袋は、長崎村から巣鴨新田へ通う道にあり、昔は雑木林の小高い
大地と沼沢で、谷端川の両岸にわずかに水田がひらかれていました。この谷端川も昔は
所々に広い沼をなしていて、実に、池の袋を形成していた様であります。
当地の住民は、高田方面から移ったと思はれる荒井氏や恩田氏、深野氏、岸野氏等がそ
の主流をなして定着し、いまもその跡が続いて居ります。
鎌倉時代からこの辺は交通の要路となり、谷端川に鎌倉橋の名も生まれました。いま、
川の一部は暗渠となり、この橋は除かれましたが、戦前までは、鎌倉橋交番が置かれそ
の名が伝えられていました。
徳川時代も中頃になると、益々交通も盛んになって、諸國の風が入る様になり、また、
この地の人も、物資交流の必要などから屡々他國へ旅することがありました。
享保の頃、この里の若者弥左ェ門も、時々信州から越後路や上方えも旅行しましたが、
そのうちに、定宿とする所も出来、或はねんごろにしてくれる者もある様になって、そ
こではいつも弥左ェ門の来るのを待っているのであります。そのうちの一人が越後の宿
の美女おこうでありました。弥左ェ門は、ひととせ越後に旅したとき、帰りに、このお
こうを伴ってきたのであります。
おこうは、弥左ェ門に対して、武州武蔵の國へお連れくださいどの様な苦労もいといま
せん、あなたのおそばで末永く働きます、というのでありました。
始めは、弥左ェ門も、それをほんとうにもしなかったし、その頃のならわしからすれば
、すべて習慣のちがう、しかも他國の人を連れくることは、家人や村の人達のそしりも
あり、これらを十分考えない訳ではありませんが、いかにも熱心なおこうのねがいと、
彼の女の気立てに、すっかりうごかされ、ついにおこうを連れてくることにしたのであ
ります。豊島の青年弥左ェ門は、このとき、おこうの人情にまけました。
この、越後の美女おこうが「お茶上がれ地蔵」伝説の主人公であります。
この様にして、おこうは、よろこびいさんで古郷を立ち、豊島の青年弥左ェ門に伴は
れ、途は程なく信濃路の、志賀や野尻をあとにして、人は何とも飯綱やま、右に拝むは
善光寺、二世安楽を祈念して、川中島の古戦場、渦巻き返えす犀川や、千曲の川瀬波
白く、そばの花咲く更級に、月の名どころおばすての、昔語りもいまはただ、身のゆく末も
白雲の、浅間の獄に立つ煙、もゆる思いをいだきつつ、小諸追分過ぎゆけば、馬子の唄
声おもしろく、駒のあゆみも軽井沢、碓氷の嶺をはやこえて、裾を流れる谷川は、この
世の塚のうすいかわ、岩にせかれる白波の、割れても末に逢はんとぞ、かすむ妙義や赤
城山、あなたとこなたを眺めつつ、旅を重ねて中仙道、したしい中も深谷宿、並木の松
を見返りつ、しばしあゆめばくまヶ谷の、土手の桜のかげみえて、旅のつかれもあら川
を越せばうれしい豊島郷、きのおを今日とあすかやま、王子巣鴨のこなたなる、さてし
も池袋の里に来たのでありました。
弥左ェ門はこのとき、これ程に決心して自分を慕うおこうと将来を暮すことは、この上
ないよろこびでありました。家人や村の人々の非難やそしりも、いまはものかわ、おこ
うと共に熱心に家業を励み、これ迄以上に精出して働く様になりました。
おこうは元来体格がよく、その容姿は人並以上にすぐれ、栲綱の白きただむきあわ雪
の、若やる肌のうつくしい、沼河姫もかくばかり、気立てやさしいめにしあれば、連れ添う
弥左ェ門に、真心から仕えるばかりでなく、家人や村の人々にも、心やさしく行きとどき、
野良の仕事もまめまめしく、たえてたゆまぬ働きぶりは、たちまち村里の評判となる程
でありました。
いまは仕合せに、弥左ェ門とむつましくその日を送ることになりましたが、ふと、どう
したことか、おこうは病の床につきました。かくては、つい野良の仕事も休みがちとな
り、さて思はずも永引けば、弥左ェ門や家人の世話になることが、つい日増しに多くな
り、おこうもそれをつらいことに想うばかり、もちろん弥左ェ門も心をいため、名医や
名薬とあらゆる手をつくしたのでありますが、不幸にして病は益々重るばかり、
それに、さしもすぐれた容姿も、疾みやつれ、また、顔かたちは、この病のために、
すっかり見にくく変ってしまったのであります。
ただかりそめと思いの外、さてそうなると弥左ェ門も家の人々も、実におこうの病気に
は、何ともいまは困惑し、ついには病気に対する困惑が、とうとうおこうに対する困惑
となってしまいました。弥左ェ門としては、おこうの心情を想うと、少しもうとんづる
気にはなれないのでありますが、さていまは、家人や世間の人達に何かとすまない気持
ちとなり、明け暮れおこうの枕辺に、なやみつかれたその末は、思案の胸もいっぱいに
なり、分別を保つ勇気はくぢけ、とうとう気の弱い弥左ェ門は、いとしいおこうをその
ままに、ひとりその身は旅の空、心のあてもなくなくに、雲をかすみと逃げ水の、行衛
も知れずなりました。(一説にが、名古屋方面かとも、或はむなしくなったとも云はれ、
絶えてゆくえは知れないのであります)
このとき弥左ェ門の家出には、家人は無論当惑し、おこうは更に悲しみました。しかし
それでも、おこうは弥左ェ門を決してうらまないのであります。うらまないばかりでな
く、ときにはこの様な病魔からのがれてくれて良かったとさい、ひそかに心のうちに思
うのでありました。
会者定離浮世のならいときくものを、ましてこの身のわずらいに、多く苦労をかけまし
た。すべて私の病故、予想もしない悲みが、なぜ人の世に起るのか、この様な病魔は、
せめては、私だけで亡さなければならない、やがて我が身は死滅する、それだけでも
病魔をこの世から退治することになるでありましょう、けなげにもおこうはこの様に悟り、
いまは、心強くも病苦を我身ひとつにしのび耐えたのであります。
ねがわくば、世の人々のこの様な苦難から救はれます様に、と、ここに諦観したおこう
は、村のはづれ、涯下の畦つぽ(方言)に小屋を結び、ひとりさびしく病躯を横たえ、
おちて流るる谷端川の沢辺にすだく虫の声、道ゆく旅の人影にも、もしや想いは弥左
衛門、いづれいかにと白雪の、つもるおもいはふるさとや、辿る浮世の山坂の、過ぎこ
し方をゆめみつつ、散るや波間にもみじばの沈む夕日の武蔵野に、たれ笧のたよりなく、
あわれむなしく消えて行ったのであります。
いうまでもなく、おこうは、この大地の小屋のところに葬られました。ときは元禄の頃
かといいます。それからというものは、このさみしい塚の辺から、道ゆく村の人々にお
茶を賜はれと言う声がきこゆる様になりました。生前お茶を好んだおこうの霊であると
いうことであります。こころ安くお茶を供養すると、おこうの霊はにっこりほほゑんで、
地蔵尊の温顔にみえたということであります。
この様なことから、よりより村の人々が相談して、おこうの家に、ささやかな地蔵尊を
立て、お茶を供えて祀ることにしました。たれいうとなくお茶あがれ地蔵と言う様にな
りました。これがこの地蔵尊の伝説であります。
この、お茶あがれ地蔵の塚といはれた所は、池袋五丁目四十二から四十五番地の辺に当
り、旧畑道を三十間程はいった台地にかかるところで元旧家の内墓のあった傍でありま
す。後に、始めの地蔵は不明となり、庚申供養塔だけが残りました。
世は変り時移って、昭和十二年、道路拡張工事のとき、その区域となり、豊島区は金三
十円の移転費を計上して、時の町会長天野氏がそれを受けましたが、適当な移転場所が
ないから取りはらってしまおうというので、土木工事が進み、愈々これを埋めるばかり
になりました。そのとき現場の模様を、古老や、附近の人について調べてみると、次の
様であります。
涯下の台地を切りくづすとき、五、六人の人夫が、段々塚に向って掘り進んでゆくと、
塚の土が、ガサッと大きく崩れてきた。・・・・・それ出たッといって人夫達はみな驚
いて逃げた、やがて、おそるおそる振り返ってみると、横穴の様で異様にみえた。そこ
で、塚も塔もそのままにしておいて、人夫も監督も翌日出て来ない、みな休んでしまっ
た。また、工事監督の夢枕に、瞭に地蔵の尊霊が顕はれ「吾は衆生の災難を除き病苦を
救はん・お茶を供えよ」とみえたというおであります。そこで驚いた人達は、埋めるこ
とを一応やめ、更に後日関係者が協議しました。その結果、隣家の古老荒井安久太郎氏
の発意で、とにかく地蔵尊を鄭重に祀るということにして工事を進め、古い塔は、同氏
の所有地で残存する町角の一画をあて、このところに移し、地蔵尊に近隣の石工の保存
していた温容をこいうけ、改めてこのところに塔と共に祀りました。それ以来香華また
絶ゆることなく病苦災難消除の祈願所となりました。供養は、町会の奉仕により毎月、
池袋四丁目、明王山重林寺の住職に依って勤修されています。
この伝説について、塚のところの地主にきいてみますと、あれは、みんな人々がさわぎ
すぎるので、伝説や風説が益々大きく広がったのでありますが、以前はそんなにさわぎ
ませんでした。細い笠付きの供養塔は、内墓の辺に元から在って、その傍に、たしか芋
穴があった所で、後に草など埋まって居た場所の様にも思います。伝説や風説は、どこ
までがほんとうのことであるか私にはよく判りません。と言われて居ります。
これによってみても、「以前はそんなにさわぎませんでした」と言はれ、全々話の種が
無かったというのではない様に受けとれます。ただ、同家では、なるべく肯定的ではな
いということなのであります。しかし、その他の古老や、附近の人達は、ほとんど肯定
派であって、実にこの伝説に同情を寄せているのでありまして、そこに、意味深いもの
を感ぜざるを得ない訳であります。
笠付きの塔は、種子大日如来 奉供養庚申石塔息祈所 宝永元甲申五月吉祥日(巾四寸
五分・高サニ尺五寸程)ささやかなもので、これによりこの処は、瞭かに、まつりの庭・供養
の場であったことを示しています。おそらく、始めに先づ、地蔵の信仰が生れ、
次に庚申供養塔が加えられ、祭祀の場所とされて居たことが窺えるのであります。これ
を要するに、豊島区が、移転料まで計上しているのでありますから、古い塚や塔があっ
たことは確かであり、工事中に、それ出た といって人夫が逃げたいうことは、おそら
く既に古くからここに同情を禁じ得ない悲話の母体があって、それを前提として(その
史実の全部をは肯定しないまでも)何程かはみなこの地方の人々が、日常予知していた
ことの心理的な顕はれであったのではないかということが、十分推考されるのでありま
す。そうであればこそ、工事関係者の夢枕にも立ったのではないでしょうか。この地方
の人々や、旧家の間に於いては、誠に同情を以てこの話を肯定して居ります。
ただその、関係かと思はれる家筋の人だけが、つとめて否定的であることは、返って、
左こそと憶はれるくらいであります。そこで、この史実の、どこまでが真であるかは姑
く別として、いまお茶あがれ地蔵尊が、現に祀られている事実に対し、私は特に、この
話をとりあげたものであります。俚俗巷間の口碑伝説もまた一概に捨てる訳にはゆかな
いのであります。まして風説をや。
地元の古老、荒井安久太郎氏は、この伝説の薄命孤独のおこうに同情し、その霊を慰め
るため、ふるい昔の悲恋を考慮し、更に、石の地蔵一体を刻み、おこうの地蔵尊に添え
ました。それは、昭和十二年秋のことであります。
南無大慈大悲の地蔵尊一唱一礼生功徳
この様にして、悲恋の伝説おこうを祀るお茶あがれ地蔵尊は、放射能の塵界に香煙細く
立ちのぼるところ、この池袋の路辺に立ち、移り行く人の世の流れを、またいつまでも、
見守っているのであります。
吾は衆生の災難を除き病苦を救はんと。


最上稲荷東京別院妙経寺(上池袋3-8)
103009 702 103009 709

103009 712 103009 742

103009 791 103009 799

子安稲荷神社(上池袋2-38-10)
103009 809 103009 820
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