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鏝絵開帳・橋戸稲荷神社 2009年2月3日(火)

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        足立区千住橋戸町の橋戸稲荷神社で、土蔵造り本殿の鏝絵が開帳されました。

        2月3日、5月15日、例祭(9月15日に近い日曜日)に扉が開きます。


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拝殿の蟇股の狐。

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拝殿が開扉されたので、奉納額を間近に眺めることができました。
大天狗小天狗に囲まれているのは虎の巻を伝授された沙那王(義経)でしょう。
橋戸稲荷神社俯瞰図には戊明治参拾壱年/戌九月弐拾弐日とあります。
1898年戊戌ですね。

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漆喰鏝絵の入江 長八(1815-1889)の親子狐。

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左扉に母子狐。丸に三宝珠の神紋を月に見立てています。
後ろ向きの子狐が気になるところですが、こちらの子狐の歯の彫りがみごとです。
接写の用意がありませんでしたので、次回は押さえておきたいところです。

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母狐の表情がやや擬人化に過ぎるかなと思ったのですが、その印象は細密な
毛並みや耳の造形のすばらしさから来ているようです。
右扉の父狐の顔もなかなか怖くて温かい。
1998年に修復がなされたとのことですが、この目はなんでしょうね。
肉眼での所感は貝殻に彩色したはめ込みかなあという気がするんですが。
彩色部の外に肋条が見えます。漆喰素材ではないことは確か、かなあ。
ま、いずれにしてもいいものを見せていただきました。

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前回の訪問で名称不明だった本殿両脇の祠について問い合わせたところ、
ともに水神社で特に名称はないとのことでした。
北千住駅から千住大橋 2009年1月19日(月)参照。

静岡県松崎町役場HPから転載。江戸での作品は大震災で大半が
焼失したというが、45点も残っているのか。

通称〝伊豆の長八〟といわれる漆喰芸術・鏝絵の名工。天祐、乾道と号した。
文化12年(1815)8月5日、当時の伊豆国松崎村明地(現在・松崎町)生まれ。
父は兵助、母はてご、長八はその貧農の長男だった。

器用で利口な子供

長八は幼い頃、菩提寺の浄感寺へよく遊びに行き、正観和尚(「本多正観」)と妻のたきゑから、大いに可愛がられたという。
たきゑは長八の家の本家にあたる旧家で、淵の大屋と呼ばれた入江家からこの寺へ嫁いだ人。
やがて浄感寺で開かれていた塾へも通うようになったが、その頃から長八は手先の器用なことで知られ、自分でもまた大きくなったら何かで腕をみがき、身を立てたいものだとかたい志を立てていたようだ。

そして12才の時、村の左官棟梁・関仁助に弟子入り、その家に住み込んで漆喰を練る仕事なども手伝うようになった。
あるとき兄弟子が土蔵の裏壁に、漆喰で半球形の〝折釘の座〟を長時間かかって塗りつけているのを見た長八は、棟梁と兄弟子が仕事場を離れたすきをみはからって、古いお椀の中へ漆喰を詰め、信じられないほどの速さでみごとな〝折釘の座〟をつくり、まもなく戻ってきた2人をびっくり仰天させた──というエピソードも残っている。

江戸へ出て日本画を修行

その漆喰細工に絵の技法を取り入れてみたいと、念願していた長八はついに意を決して19才のとき江戸へ出、川越在住の狩野派の絵師・喜多武清の弟子となって、3年間みっちりと修行した。

そして漆喰に漆を混ぜると、思い通りの鮮やかな色が出せることや、鏝絵という新分野の技法を工夫した結果、長八独特の芸術的ジャンルを開き、この頃から堰を切ったように数多くの名作を生み出した。

特に長八の名が江戸中に知れ渡ったのは、日本橋茅場町の不動堂が再建されたとき。
多くの職人の中から腕を見込まれて選ばれた長八は、表口御拝柱の左右に実にみごとな迫力のある1対の竜を描き、一躍〝名工〟とうたわれるようになった。26才の時である。

名作と辞世の句を残して

それからの長八は、浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残し、ますます名声を博したものの、江戸で作られた作品は関東大震災によって大半が焼失。
現在、東京方面で残っているのは、足立区・橋戸稲荷、品川区・高輪の泉岳寺、東品川の寄木神社、千葉県・成田山新勝寺などに約45点。

郷里松崎では、昭和59年7月オープンした「伊豆の長八美術館」に約50点、浄感寺の「長八記念館」に約20点が展示公開されているほか、重文・岩科学校、春城院、三島市・龍沢寺にも作品が所蔵されている。
明治22年(1889)10月8日、深川・八名川町の自宅で歿。

辞世の句は、
「わが秋や月一夜も見のこさず」
74才だった。墓は松崎・浄感寺と、東京・浅草の正定寺にある。


入江長八の年譜

文化12年 (1815)8月5日 伊豆国松崎村明地に生まれる。
文政4年 (1821) 浄感寺塾に入る。
文政7年 (1824) 弟・巴之介歿、4歳。
文政9年 (1826) 左官の親方・関仁助に弟子入り。
文政11年 (1828) 妹・とめ歿、3歳
天保6年 (1835) 著名な画家喜多武清に絵を学ぶ。
天保9年 (1838) 父・兵助歿、60歳。
弘化3年 (1846)頃 浄感寺本堂の天井の竜、ふすまの竜、欄間の飛天などを作成。
弘化4年 (1847)頃 江戸・深川の妓楼播磨屋の養子となり、10代目金兵衛を名乗る。
嘉永5年 (1852) 姉・民歿。
嘉永6年 (1853) 母・てご歿。
安政3年 (1856) 白に鳥の図、成田山新勝寺に奉納される。
明治3年 (1870) 妻・たき歿。
明治13年 (1880) 岩科学校と岩科村役場に、千羽鶴、千里江山の図、清少納言の図などを製作。
明治22年 (1889)10月8日 深川八名川町の自宅で歿、74歳。

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  1. 2009/02/03(火) 23:26:55|
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