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成増から和光市白子 2009年11月30日(月)

菅原神社(板橋区成増5-3-23)
n113009 127 n113009 152
最初に探した富士浅間大神(成増3-30)は、だいぶ前になくなったそうです。
成増の高台にある天神さま、末社は稲荷社と愛宕社日枝社の合殿。
参道には石橋があります。

n113009 092 n113009 063
郷土博物館で復元展示しているような井戸です。それにしても、
水盤に亀が彫られていたのに気がつきませんでした。
明治二十年三月、伊勢太々講の奉納です。

豊川稲荷神社/氷川神社(和光市白子3-27)
n113009 256 n113009 185
埼玉県に入りました。坂がV字に折り返す内角にある神社。
南市場いこいの森という小さな公園が隣接しています。
お稲荷さまは昭和13年に市場城山青年團が奉納していました。

御岳神社?(白子3-5-57)
n113009 267
笹目通りに面した四晴会公民館の裏手にある。社名は地図によるが、
表記などはない。祠には稲荷が入っている。

神瀧山清龍寺不動院(和光市白子2-15-47)
n113009 415 f113009 052
熊野神社の境内から階段を登って不動院にたどり着く。
なんだか富士塚みたいですが、崖の法面だけで山頂はありません。

n113009 409 f113009 017
谷側にはいくつかの稲荷社が並んでおり、つきあたりが洞窟でした。
ライトを持っていたのでそのまま入りましたが、実は・・・

n113009 364 n113009 370 n113009 336
手前が入り口で、電灯のスイッチもこちらにあるのでした。
意外の奥深さで、これはなかなかの胎内めぐりでした。

n113009 310 n113009 307
熊野神社拝殿の左に瀧があって、それから不動院に向かった
ので話は前後しますが、龍頭は文政八年製でした。

乃木大将修行の瀧
日露戦争(明治37年2月~明治38年9月)において、ロシア帝国が太
平洋艦隊の母港としていた旅順港の撃滅が日本の命運を決すると言
われていました。乃木大将指揮する日本軍は、壮烈なる激戦の末、
ついに旅順要塞を攻略し、太平洋艦隊は撃滅された。
乃木大将は、旅順への出陣に先立ち、不動院本堂に一週間の参籠。
この不動の瀧に打たれ修行を行い『知者不惑』の扁額を残し出陣さ
れました。今も本堂にその扁額が祀られ、不惑の文字に、その当時
の乃木大将の心境が偲ばれます。
又、日露戦争を決意された宰相の桂太郎(第十一・十三・十五代内
閣総理大臣、陸軍大将)も、不動の瀧に打たれ不動明王に祈願され
ました。瀧行を頭上から静かに見守って下さる不動明王は、二人の
祈願に大いにお応え下されたと伝えられています。


[成増から和光市白子 2009年11月30日(月)]の続きを読む
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  1. 2009/11/30(月) 19:57:30|
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長津田の王子神社と大林寺 2009年11月28日(土)

長津田 王子神社(横浜市緑区長津田7-5-34)
112809 002 112809 025
 環境霊園 横浜みどりの里で法事があり、送り迎え
の間に近場をめぐってまいりました。
鳥居の前に樅の木が立っています、もとは二本あった
そうです。鳥居は昭和六十二年十月二十日、
岡部喜代 キク夫妻の、結婚六十年長洲神奈川県知事
より金銀杯拝受記念で建立されたものでした。
植込みで隠れているのはもったいないですね。
旧社殿は狩野川台風で大きな被害を蒙ったようです。

王子神社社殿造営記念碑
王子神社は 江戸時代の初期 長津田の領主 岡野平兵衛房恒によって創建され 以来長津田の鎮守として 私達の祖先が代々守り続けてきた由緒ある社です 草葺きの大きな社殿でしたが  昭和三十三年九月の台風に伴う豪雨の際 裏山が決壊してその土砂により大きな被害をうけました 間もなく社殿は世話人氏子の努力により復旧されましたが 当時の経済社会情勢から暫定的な建物とし 時期をみて造営する意向であったと云われております
その後造営に関する提案もありましたが 諸般の事情もあり造営の気運に至らず内装の修理女坂の舗装等を行い神殿の護持運営に努力してきました 然しながら社殿の老朽化は進み造営をせざるを得ない状況に立ち至っておりました
このような折 氏子の中で夙に敬神の念が篤い岡部喜代氏から昭和五十四年に喜寿の祝い 五十八年に結婚五十七年を記念して それぞれ五百万円計壱千万円が神社造営資金として寄進されました これを機に五十八年七月二十九日王子社奉賛会において新社殿造営の方針を決定し 同年八月二十九日に王子社社殿建設委員会の発足をしました 以来委員会を中心として社殿造営に要する浄財を募ったところ 氏子のみならず 他地区崇敬者の皆様からも多額の御寄進が寄せられ この浄財を基に建設委員一丸となって この大事業に取り組み三年余の歳月を費し ここにめでたくこの事業の完成を見ることができた次第であります
昭和六十一年十月十日
王子神社社殿建設委員会

112809 098 112809 107

神社めぐりをする目的のひとつに、戦後の神社復興を
めぐる動向への興味ということがあります。
歴史を知るためにはわれわれの時代の物語から始めよう。
ということですね。

元宮司小林明美刀自命顕彰碑
昭和六十二年、王子神社氏子並びに崇敬者の方々に御寄進いただき念願の本殿を新築して、更に地域の方々に崇拝される王子神社の興隆を図るには、常勤神職を置くことが必要でありました。当時、王子神社は、神鳥前川神社志田宮司の兼務神社であり相談したところ快く、川岡禰宜のもとで修行していた小林明美女史を派遣されました。小林明美女史は、常に微笑みをもって努められ参拝者の方々に大変慕われました。
また、非常に努力家で國學院大學や各種の研修などに参加し宮司の資格を取得され。神鳥前川神社に戻る時期に、広く知られていない王子神社に、自ら奉仕の心を持って留まることを決断し、正式に王子神社宮司として就任され骨身惜しまず努力し地域から崇拝される今日の王子神社発展の基礎を築かれました。
平成十二年一月十七日、新年初詣の行事も一段落しその疲労が溜まったまま帰宅されるとき、中央林間駅付近道路に於いて不慮の事故に遭い、享年五十七歳の尊い命を落とされました。小林明美元宮司の尽くされた功績は誠に大きく、本殿新築二十年の節目に、氏子一同深く感謝し顕彰碑を建立いたします。
平成十九年一月
王子神社 氏子一同

稲荷神社
112809 067 112809 058
境内社が見当たらないなと思ったら、社務所わきの
階段を登った先にありました。近在の数軒で講社を
護っているようです。

慈雲山大林寺(緑区長津田6-6-24)
112809 117 112809 132
岡野家の歴代の墓所があるそうですが、別当寺では
なかったのですね。水盤舎がこれも岡部夫妻の奉納でした。
昭和六十二年三月十五日建之

慈雲稲荷
112809 137 112809 142
岡野家第三代の房勝は八百屋お七の裁きを行ったということで、
大林寺の前にお七稲荷があると聞いていたのですが、
探し出せませんでした。境内に鳥居があったので墓地を
通ってたどり着きましたが、お寺の庭の一部のようにも
見え、早々に退散しました。
  1. 2009/11/29(日) 15:56:28|
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宝珠花神社 春日部市西宝珠花 2009年11月27日(金)

宝珠花神社(埼玉県春日部市西宝珠花77)

f112709 068


念願だったのです、やっと行くことができました。
4号線を庄和町に入ったとたん、朝靄で田圃も霞むほどの
視界でしたが、神社はもう幻想的ではありませんでした。

n112709 007 n112709 017
神社わきに河岸方稲荷。
由緒
この社、河岸方稲荷は、宝珠花村時代に、舟運に繁栄した江戸川に
沿って河岸方組合(現在の上第八組)という組織があり、全員商人
でしたので、商売繁盛を願って建立されたと言い伝えられている。
お社の沿革
お社の創立年代は不詳ですが、移転前、浅間山の中腹に建立されて
いた。
昭和二十八年十月 江戸川の河川改修により現在地に移築する。
昭和四十四年三月 移築してきた、お社は木造の瓦葺きでしたので
老朽化に伴い鉄製造りに改築した。
平成十三年四月 鉄製の、お社も老朽化に伴い白御影石造りに改築
する。更に現在の氏子の家内安全を併せ祈願するものとする。

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春日部市指定有形文化財 宝珠花神社扁額
春日部市西宝珠花七七番地 平成十四年三月二十六日指定

宝珠花神社に伝わる扁額で、寸法は縦九一センチ・横五六センチです。銅版製で、表に「三國第一山」、裏に「武州粕壁住鋳懸師/駒田文吉恐惶謹造/天保四年癸巳正月吉日/不二登山一百二十一度/當所氏子中/行者禄行三志書」とあります。これにより、この扁額は天保四年(1833)西宝珠花の人々が富士登山一二一回を記念して奉納したもので、「三國第一山」は富士山を意味し、行者禄行三志の書体を粕壁の鋳掛師が鋳造したものであることが分かります。
禄行三志は、近世後期鳩ヶ谷宿出身の不二道指導者小谷三志(1765~1841)の行名です。富士塚戸と共に当地域の富士信仰の隆盛を示しており、著名な民間信仰の指導者との関連を示す貴重な文化財です。
平成十四年九月

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燈籠について
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参道鳥居の右の燈籠にはちょっと驚かされました。
階段がついているのも滅多にないことでしょうが、

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それにも勝る驚きは、台石の獅子が格狭間はおろか天
を越えて刻まれていることでした。燈籠はこうした破格を
見ることがほとんどないので、普段はあまり興味がわきま
せん。
文政七歳丁亥六月とあり、石工は東寶珠花 米川彌兵衞。

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百度石の上の猿。

宝珠花神社 所在地 北葛飾郡庄和町西宝珠花七七
宝珠花神社の祭神は、木花開耶姫命、菅原道真公、経津主命、素盞
嗚命の四柱で明治四十年十二月に、浅間社、天神社、香取社、八雲
社を合祀して社号を宝珠花神社と改称する。
各社の創立年代は不詳。江戸川の改修により昭和二十八年六月に、
西方約三百メートルの現在地に移転する。例年、祭礼二月二十五日、
夏祭七月七日、秋祭十月九日が行われる。境内の浅間山は富士山に
模して、一合目から九合目までの標式があり、頂上に浅間大神を祀
り亀岩、烏帽子岩などがある。近郷の人々から浅間様として崇敬さ
れ、七月一日の初山には、子供の成長を願う参詣者で賑わう。夏祭
には、子供たちにより雌雄二頭の獅子が、氏子の各戸を廻り疫病退
散を願い、また当時の江戸川舟運の繁栄をしのばせる大神輿が、若
衆によって勇壮に町内に繰り出される。
昭和六十一年三月
埼玉県
庄和町 [宝珠花神社 春日部市西宝珠花 2009年11月27日(金)]の続きを読む
  1. 2009/11/27(金) 17:45:26|
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嬬恋の下屋家と熊野神社 2009年11月25日(水)

こちらもキャプションは後日だ。11月26日追記。

下屋春美さんを講師として『下屋家の歴史とご自宅周辺見学会』
が開催されました。

112509 103 
三原地区から平原火砕流台地を望む。
1783年8月5日この断崖から吾妻川に鎌原土石なだれが落下した。
参考:浅間火山北麓の電子地質図 早川由紀夫


112509 008 112509 015 
重兵衛というそばやの横に横浜開港中居屋重兵衛生家とある。 
坂上に中居屋旅館があった。営業はしていないが。

112509 024 112509 064 
下屋邸(棄城庵山荘)の門構え。

くらしの歴史 三原荘の海野氏と下屋氏より(配布資料・原書記載なし)
平安時代の末のころ海野幸房が吾妻郡に侵入し、三原の竹の下、下屋に
居館を構えて三原荘の荘園領主として、下屋将監幸房を名のった。その子
孫は代々修験者であったという。(中略)
下屋家の村造りのしくみは、下屋一族を一部部落をに分家させてその一族
を中心とした血族統治方式を行っていった。この下屋氏の一族の筆頭が鎌
原氏である。(中略)
この下屋一族の浅間野、白根山麓、西吾妻全域に栄え、のちの村々を開拓
していった証明をする貴重な文書が下屋文書であり、その修験道を中心とし
た特殊な集団支配についての歴史研究の資料としても、日本の中世の研究
資料として価値の高いものである。

松島榮治
078.下屋家文書
より
 三原の下屋悦夫氏家には、代々伝わってきた南北朝期を含む室町時代の
18通にのぼる古文書がある。それらは、日本固有の山岳信仰と仏教の教え
が混ざりあって成立した“修験道”関係のものであり、嬬恋村ではもちろん群
馬県としても極めて貴重な史料である。
 下屋家に伝わる古文書は、後に写されたとみられる建久5年(1194)のもの
は別として、南北朝期の貞治元年(1362)のものが2通、嘉慶2年(1388)のも
の1通、応永年間(1394~1428)のもの8通、文安元年(1441)のもの4通など
がある。これらの多くは“旦那譲状”とされるもので、自分で所有する修験道の
檀家(宗徒)の一部を分族に譲渡するというものである。
http://www.kazeno.info/matushima/23-bunka/078.htm

門前の坂は旧真田道ということで、降って車道に出るところに湧水があった。
途中の斜面に卵塔をふくんだ下屋家の墓地があり、ばんばと呼んでいるとこ
ろと説明があったが、より広い領域が馬場であったということなのだろう。

清浄法水の伝承(*法は氵に厺)
弘法大師が杖を突いて湧出た泉といわれ刻んだ梵字と名称が遺る
泉は思い川となり田畑を潤し中居村赤羽根村は境界とした
源頼朝は巻狩の折法水を愛飲し馬場を設けた

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三原三十四番観音札所 第十二番 岩井堂(三原阿弥陀堂)

案内された畑地はもと修験寺院と神社のあったところで、1783年の
山押しで寺院は流され、地蔵などの出土はあったがご本尊の大日
如来は行方不明。カロートに収めた甲冑武具はこのあたりに埋まっ
ていると思われる。


112509 070 112509 076
棄城庵別邸。この中で質疑応答四方山噺などありました。
古文書の保管の話で、蔵の桐箱に入れてまさかの時は持って逃げる
ということ、20年ごと?紙背に裏打ちしていることなどを聞いたカミさんが、
下屋氏に虫干しのことを聞くと、夏にするが他人には見せぬという。
古文書館でコピーが見られるそうですが、われわれ夫婦はホンモノにしか
興味はありません。南北朝期の古文書など、実見する機会はまずないでしょう。

ところで嬬恋の為政者の文化レベルの話から土建屋の天下だった時代の話と
脱線していったのですが、よそから来て筵がけの小屋住まいから身を立てた
土建屋がこの土地のトップとなり、村政をも牛耳っていった物語には別の意味で
の感慨がありました。
権力は外から来るのであって、土地に自生するものではないと。
野地占定または山地占定という用語がありました。荘園の土地を区画するため
の行政用語といえますが、その実質は入会地の囲い込みで村落を支配するための
手段でした。

「中世的世界の形成」石母田 正著 岩波文庫 1985.より
入会地(中略)は村落民の生活に必須な生活資料の採取地であり、自己の耕地へ
の往還であったが、当時の官符が語る如く新たに侵入せる土地所有者は村人の
鎌・斧・馬牛を奪い或いは灌漑用の河沼を差押えることによって百姓の農耕を妨げ、
また往還の道を塞ぐことによって従来の自由な入会地使用を妨害しようとした。(p.31)

外から来た災いがやがて慣習となり歴史となり、守るべき郷土となる。
これが歴史を知り、学ぶために忘れてはならない教訓のひとつです。


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棄城庵山荘に戻って見学会は終了です。下屋さんありがとうございました。
蔵の家紋はこの位置からでないと全体が見えなかったのですが、光琳梅鉢
のようにも見えますが五放射相称ではないようです。

熊野神社(群馬県吾妻郡嬬恋村門貝鳴尾)
112509 198 112509 177
奥の院(本堂に掲げられていた木版より)
昔から語りつがれた話しによると此の岩穴よりニワトリを放した処越後の国山高郷
に出て、トキをつくったと語りつがれている.岩の壁には梵字が刻まれているが、此の梵字は
佛の字と言はれているが意味はさだかでない.修験者か又は参拝者の手によって刻
まれた幾つかの字の中には長い年月の間山火事、又は風雪によって朽ち果てた残る字が見ら
れる中でも第九五代花園天皇北條時氏の文保三年と刻まれた字が残る.
六六〇年余り前の頃である叉岩の中央には修験者の修行した
台座が残っているのも面白い.
門貝 氏子

112509 185 
さかさ杉

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火山博物館で浅間を眺める。
  1. 2009/11/25(水) 23:19:14|
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軽井沢から北軽井沢 2009年11月24日(火)

翌25日に急遽下屋家の歴史とご自宅周辺見学会(浅間ミュージアム)
が行われることになったので、嬬恋のペンションに向かう。
キャプションは後日。

成沢諏訪神社
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権十稲荷
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牧宮神社
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桜岩観音堂
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ボン・ヴィ・ボン
112409 246
  1. 2009/11/25(水) 22:49:11|
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高円寺の氷川神社と気象神社 2009年11月22日(日)

当日高円寺で発生した火災の記事は、別館に移転しました。
http://neuraminidase.blog114.fc2.com/blog-entry-134.html
災害関連をここ本館に載せるのは、次第に場違いになってきた
ようです。本来このブログは事件と自然災害の見聞が目的でした。
(11月23日11:30 変更)


氷川神社(高円寺南4-44-19)

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昭和20年5月戦災により社殿焼失。
昭和22年9月仮殿を造営。
昭和46年10月社殿、社務所・神楽殿・神輿庫・手水舎を新築。
かなりかかったように見えますが、復興は20年以上かかるものです。

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神輿ギャラリーは壮観です。ただし、由緒ありそうな神輿ほど
修繕を必要としているように見受けられます。
境内社は拝殿の左に気象神社の参道がありますが、
明治13年の鳥居は樹の陰で窮屈そうです。

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「東京都神社名鑑」では境内社はこの気象神社のほか、稲荷神社、
御嶽神社、日枝神社となっています。たしかに背後に三社ありますが
どれも稲荷神社にしか見えません。なお、思兼命の八意とは、
八つの気象現象、風・雨・雪・霧・霜・雷・雲・晴をさすとか。


気象神社 御祭神 八意思兼命(知恵の輪)

 この気象神社は昭和十三年 陸軍気象勤務の統括、教育
機関として旧馬橋四丁目(現高円寺北四丁目)に創設され
た陸軍気象部の構内に、昭和十九年四月十日造営、奉祀さ
れたが、翌昭和二十年四月十三日空襲に因り焼失し、当社
殿は終戦直前に急遽再建されたものである。太平洋戦争の
終戦に当り神道指令に拠り除却される筈の処当局の調査漏
れのため残存しており連合軍宗教調査局に申請して払い下
げを受け当所に移設し、昭和二十三年九月十八日当氷川神
社大祭に際し遷座祭を執行、奉祀して現在に至つたもので
爾来毎年六月一日の気象記念日に例祭が執行されている。
平成七年一月吉日
第三気象聯隊戦友会 気象関係戦友会有志 寄贈

気象神社のサイト
http://www.kisyoujinjya.jp/index.html
  1. 2009/11/22(日) 17:57:35|
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平河天神 平河天満宮 2009年11月21日(土)

平河天満宮(千代田区平河町1-7-5)
112109 023 112109 118
国会図書館で調べものをしての帰り、そういえばまだ参拝したことの
なかった平河天神に立ち寄りました。拝殿の向きが参道に正対して
いません。これは故地の皇居北、平川門方向に向いているのでしょうか。
参道の石牛はスエヒロの奉納です。なで牛は他にあります。

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境内社の平河稲荷神社と
摂末社の浅間神社・大鳥神社・塩神社の三殿宮。

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天保15年の銅鳥居。当社は大震災で一宇残さず烏有と帰し、
昭和20年の戦災で本殿をのぞく施設の一切を焼失しています。
この鳥居にも語られぬ物語があったはずです。
  町々安全 商職繁盛

千代田区指定有形文化財(建造物)平河天満宮銅鳥居 指定 平成六年四月
この銅鳥居は、高さ五メートルにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保十五年(1844)十二月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。
 同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは、「文政武鑑」に「御鋳物師 西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで十二代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら十二人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1847)に没した八代目であると思われます。なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家五代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に四体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。
平成八年三月 千代田区教育委員会

112109 080 112109 109

千代田区指定有形民俗文化財 狛犬 指定 平成七年四月
本殿向かって右側の石像の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永五年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第十八編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永三年(1850)の火災で角や足を失い、同五年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖障子」といわれるものであると思われます。「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前二世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径十センチ、深さ五センチほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対になっているといえます。平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮らす人々の平河八幡宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。
平成八年三月 千代田区教育委員会


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境内で人と話し込んでいるうちにすっかり暗くなりました。
不思議と立ち去り難い空間、気に入りました。
  1. 2009/11/21(土) 22:38:47|
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御嶽神社(板橋区桜川)界隈 2009年11月18日(水)

御嶽神社(板橋区桜川1-4-6)
111809 256 111809 028
大門の諏訪神社へ行くつもりでしたが、御嶽神社というナビの表示で立ち寄ったところ、こちらが本筋となってしまいました。城北中央公園は練馬区と板橋区との境にあるかなり大きな公園ですが、神社は公園の一部ではなく、独立した区画になっています。社務所は無人で、落ち葉を掃く人もなく。


御嶽神社
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこのみこと)・金山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。当神社もその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
平成四年三月 板橋区教育委員会 (*毘を昆で表記したのは原文ママ)

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本殿より高台にあるのは天祖神社。

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稲荷神社。本殿の背後には榛名山の石碑。

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神輿庫は立派な鯱を戴いていますが、壁に埋め込まれているのは、
獅子頭でした。木鼻に見立てているのかも知れません。

狼型狛犬
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当地の人々が、武州(一説には甲州)御獄山の分霊を勧請したと伝えられています。社殿右側にある嘉永7年(1854)の狛犬は、山岳信仰のシンボルである狼型のもので、下新倉(埼玉県和光市)の石工石田栄蔵によって造られました。
御嶽神社の狛犬
板橋区登録有形民俗文化財(信仰) 昭和62年2月27日登録
 御嶽山は、平安時代に修験道の霊山として蔵王権現が祀られたことに始まります。江戸時代には御嶽神社へ登拝する「御嶽講」が組織され、また御師(おし)と呼ばれる宗教者による武蔵・相模・甲斐への活発な檀家廻りによって、現世利益的な家内安全・五穀豊穣を願う、日常生活に密着した信仰として広がりを見せました。
 その際に配布される神札は「御神狗」と呼ばれ、火災盗難病難退除の御札として知られています。神狗は狼(山犬)のことで、「大口の真神」と尊称され、山の神の眷属(けんぞく)として、あるいは山の神そのものとして神聖視されていました。このため、御嶽神社の狛犬は狼型をしています。登録文化財となっているのは、区内では当社に三対しかない狼型狛犬のうちの、嘉永7年(1854)造の一対で、当時、神社の肝煎(きもいり)をつとめていた宝田氏・木下氏が中心となり安置したものです。(板橋区


☆境内で30年も気功などされている方にお聞きしたところ、近所の子供がこの狛犬に小遣いを隠していたところ、掃除の人が発見して警察に届けられてしまい、盗まれたと思った子供が狛犬を倒して破損させてしまったとか。それから小屋に施錠されて置かれるようになったそうです。
ここは賽銭泥棒が頻繁で、神社と見ては金貸してくれという訪問者もいて、社務所の管理人は怖くなって出て行ったそうです。公園を背にしていたら夜は怖いでしょうねえ。この公園は首吊りも多いようで、神社のうしろでも一度あったらしい。所管社は南常盤台の天祖神社です。

「東京都神社名鑑」によると氏子2500世帯、崇敬者100人。
例大祭9月18日、12月15日大注連縄ない。
また行くべき行事がふえてしまった。
[御嶽神社(板橋区桜川)界隈 2009年11月18日(水)]の続きを読む

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  1. 2009/11/18(水) 20:43:12|
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歌舞伎町から抜弁天方面へ 2009年11月15日(日)

花園神社(新宿区新宿5-17-3)
111509 023 111509 167
なんとなく新宿区は避けていたというか、花園神社って
歌舞伎町じゃなかったのか!(もちろん冗談)
おいら、風月堂亡きあとの新宿を自分の街だとは思っていないんで。
拝殿の社額は花園神社の左右に雷電神社と大鳥神社が並んでいます。
これは昭和40年に社殿と社務所を鉄筋コンクリートにするとき、末社を合祀し
て花園稲荷神社から花園神社に名称を変更した由来があります。
そもそも社殿の下はH & I ビル(花園神社・伊勢丹の共同出資か)で、しば
らく前まで伊勢丹の什器置き場として使われていました。
寛永年中以前の社地は伊勢丹の地域にあって、朝倉筑後守が拝領した
下屋敷で囲い込まれたため、代地として尾張候の別邸花園を拝領して現在
に至る。故地は東西六十五間、南北七十五間というから、伊勢丹本館とほぼ
同じ土地と考えていいのかな。浅からぬ因縁でつながっているのですが、
それにしても伊勢丹の奉納提灯目立たないなあ。

右は威徳稲荷神社ですが、一の酉から二の酉までの間、露天の小屋組みは
そのままなんだ。門前の市が境内に入り込むようになったのは明治以降のこと
だろうと思うのですが、東京の神社で露天商を一切境内に入れないところが思い
のほか多かったのは、回ってみなければわからないことでした。
たとえば神田明神の屋台は門前と駐車場だけですし。(適切な例ではなかった)

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芸能浅間神社。ここは初めて見るのかな。冨士浅間大神遥拝所と
建設碑にはある。山頂で振り返れば八代亜紀。

稲荷鬼王神社(歌舞伎町2-17-5)
111509 351 111509 234
狛犬がパネルではさまれていました。養生とかではなくて、掲示板
として利用されるような感じです。雑然とした印象が残念ですが。
末社は開運恵比寿と石碑にあるだけの三島神社。ここと拝殿の
右に水琴窟があって、後者は竹筒で音を聞くようになっていると、
七五三の準備で忙しい神主さんがわざわざ教えてくださいました。

111509 256 111509 263
わたしはこの賽銭箱が気になって仕方ありませんでした。
稲荷・巴の重ね紋と九つの纏紋がイケてます。昭和40年奉納。

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西大久保富士。もとは区役所通り側にあって、戦後の道路拡張
で移転縮小されて、参道の南北に分断された姿となった。
左は北側で1号目から4合目まで、南側が5合目から頂上。

西向天神社(新宿6-21-1)
111509 615 111509 466
崖上に隣接してもと別当寺の大聖院があって、大田道灌に山吹の歌を
送った紅皿の墓?が駐車場の一角にある。

 大田わけ是が雨具かヤイ女

111509 409 111509 553
天神社の賽銭箱にも纏紋が二つ。稲荷鬼王神社と同じ九区二番組と、
三区六番組(三つ鱗が入っている)。神輿庫になっている旧社殿には
昭和4年の奉納額がいい保存状態で掲げられていました。

111509 610 111509 589
東大久保富士。境内の南が天神山遊園となっており、柵越しに山頂
が見える。階段坂を降りると下は駐車場となっているが、塚の裾が壊
されているかどうかはわからなかった。崖を利用した半身富士というか、
「タイタニック」のセットみたい。神社下に浅間神社の碑と胎内窟があって、
山裾を巻いて登るようになっている。立ち入ること自体は容易だが、怒られ
るとしたら誰にというか、どこが管理責任を負っていることになるのだろう。
解説板もなく、トイレも設置された公園の、ただの崖斜面という扱いに見え
ないこともない。
[歌舞伎町から抜弁天方面へ 2009年11月15日(日)]の続きを読む
  1. 2009/11/15(日) 22:53:25|
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杉並の小祠 巡検 2009年11月14日(土)

稲荷社(杉並区井草5-17-22)
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雨のち晴れのち曇り。『杉並の小祠』(1996)をめぐり、西武新宿線
上井草から井荻まで巡検してきました。

稲荷社(井草5-14-12)
111409 055 111409 050
オートセンターイグチ駐車場にありました。

宝積稲荷社(上井草1-5) 確認できず。地元の人もわからず。

四宮稲荷社(上井草2-6)
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鳥居は新しくなっていましたが、立ち入りできず、やや荒れている様子。

社名不詳(今川2-15)
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竹やぶもある大きな敷地の、観泉寺の東側に面した小社と石仏群。
『杉並の小祠』には出ていない。開放するような造りに見えるが、
パイロンで立ち入れません。

今川稲荷(今川2-14-25)
111409 122 111409 110
『杉並の小祠』の記載は正一位稲荷大明神。駐車場の一隅
ながら植栽できっちり守られています。

稲荷社(清水3-6-23)邸内ということですが、外からは伺えないので未確認。

稲荷大明神社(清水3-7-5)
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『杉並の小祠』では清水3-7-4となっていました。
[杉並の小祠 巡検 2009年11月14日(土)]の続きを読む
  1. 2009/11/14(土) 18:57:26|
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酉の市と杉並の小祠 2009年11月12日(木)

出世大鷲神社(杉並区下井草1-31-2)
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『杉並の小祠』では天沼大鷲神社。早稲田通り沿い、本日は一の酉です。

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オジロワシ、でしょうね。お酉さまの起源は諸説ありますが、神仏のお使いとして
の鳥が神社の名称となり、名称のゆかりで鳥そのものが御神体となるところに、
なんともいえない神事の機微があるような気がします。

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111209 089 111209 110
駐車場の一角に三峯神社がありました。『杉並の小祠』には記録されていません。

大鷲神社
当社は出世大鷲神社と称し、御神体は剥製の大鷲です。
 この地は天沼本村と呼ばれた農村地帯で、主に東京への野菜供給地でした。大正10年1月11日、現在の本天沼二丁目37番付近の畑地にあった赤松に飛来した鷲を、村の人たちが悪戦苦闘の末仕留めました。羽を広げると2m以上もある大鷲でした。村中の人達が見物に来、村に祟りでもあると大変なので、おとり様としてお祀りしようと話がまとまり、一社を建立しました。その後毎年11月の酉の日には市がたち、天沼本村だけでなく近郷近在の名物として狂言や踊りなどの余興を催したり、賑やかなお祭りがありました。今でも酉の日には、町の有志により商売繁盛を祈る熊手が売られています。石の鳥居は、昭和63年に建てられました。前を通る早稲田通りは拡張され、今では平坦な道となっていますが、昭和初期の区画整理前は大鷲神社から西へ向うところは“げんぼう坂”と呼ばれ、かなり急な坂道で荷車を引く者にとっては難所の一つになっていました。
  平成3年3月 (引文元

大和市神社(善福寺4-14-1)
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111209 208 111209 184
こちらも、オジロワシ、だと思います、が。
アクリル板越しなのでちと写し辛い。

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大熊手はまだ揃っていないようでした。夕方から近所でお囃子とかあるそうです。

111009 464

大和市神社
当社の御神体は剥製の大鷲です。
 この大鷲は、大正14年秋、練馬区関町との境にあった、一本松に留っていたものを、散弾銃を持ってきて撃ったと言われています。大鷲は弾が当っておちてきながらも、向ってきたので、また撃たれ仕留められたそうです。 あまりにも大きな鷲なので、剥製にして保存し、これを御神体として翌15年村中の人々と話し合ってお社を建てて祀り、大和市神社としました。
 土地の人や、近郷の人々も入って講中となり、毎年11月酉の日に、井草八幡の神主を招いて祭礼を行い、熊手を売ったりしています。 昔は、現在と異なり、お社のまわりは、空いていたので、祭礼の際は、いろいろな屋台が出たり、芝居や神楽などが行なわれました。とくに、芝居小屋がかかると、どこからこんなに人が来たのかと思うくらい集まったそうです。
昔は娯楽が少なかったので、近郷近在のひとにとっては、とても大きな楽しみだったのでしょう。
区内には、大鷲の剥製を御神体としているお社が他に、下井草一丁目に有り、大鷲神社と称しています。
  平成4年3月(引文元

↓以下の記事は11月13日に追記しました。
[酉の市と杉並の小祠 2009年11月12日(木)]の続きを読む

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  1. 2009/11/12(木) 16:54:19|
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荻窪八幡と井草八幡宮 2009年11月10日(火)

荻窪八幡神社(杉並区上荻4-19-2)
111009 158 111009 133
「ごくせん」ロケ地の立札がありました。平成17年1月~3月。

荻窪八幡神社
 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明9年(1477)4月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。 なお、当社には、永仁2年(1294)、嘉慶2年(1388)、応永29年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。
   昭和54年2月1日(引文元

111009 270 111009 125
左から秋葉神社、猿田彦神社、
五社相殿(祓戸神社、琴平神社、須賀神社、稲荷神社、御嶽神社)
彰忠碑は鎖で立ち入りを禁じられているので、社務所の方にお願い
して背後を見せていただきました。

先年桃井第一小学斈校庭に建てられた
本碑は大東亜戦争の直後故あって地
中に埋められて居たが今回有志者に
よって此の地を相し再建して以て永く
其の遺芳を偲ばんとするものである
昭和参拾壱年六月


111009 266
境内にはいくつかベンチがありますが、これはたまらん。

御嶽社(桃井4-1-9)
111009 173 111009 203
『杉並の小祠』(杉並区教育委員会 1996,)によると、元上荻4-29-15に
あったが、青梅街道の拡張で移転したとある。

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石碑に御嶽山とあり、ぼろぼろだが大口真神が坐す。
通りすがりの人は稲荷神社かと思うでしょうね。

中通備社稲荷社(桃井2-21-11)
111009 227 111009 233
ここも『杉並の小祠』から。うしろのお宅の方にお聞きしたところ、
名前はないと言われました。
なお前掲書の
稲荷社(今川1-7-1)
おしゃもじ稲荷社(桃井2-18-4)
第六尊天稲荷社(桃井3-8-20)
 は見当たりません。 [荻窪八幡と井草八幡宮 2009年11月10日(火)]の続きを読む
  1. 2009/11/10(火) 21:47:29|
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世田谷区用賀と桜新町 2009年11月9日(月)

用賀神社(世田谷区用賀2-16-26)
110909 005 110909 010
すこし空いた時間を利用して立ち寄りました。『東京都神社名鑑』の23区内
神社は810社ですが、『街っぷる東京23区』ではあと550社は回らなければ
なりません。

110909 068 110909 061
稲荷神社のわきの玉垣にある祠は、東京都神社名鑑に
記載された山際神社か?

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この戦捷紀念碑は大正8年9月建立ですが、日清日露の前に
西南役戦死者従軍者が記載されていました。

伊富稲荷神社(桜新町2-20)
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  1. 2009/11/09(月) 21:31:33|
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長野県南佐久郡小海町にて 2009年11月7日(土)

水天宮神社(千代里本間上)
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小海町の北、佐久甲州街道から山側の崖下に見える。
昭和52年5月1日の修理移転の奉納で神社名がわかった。
今回入手した小海町役場の『小海のお宝100選』には出ていない。
隣は馬頭観音団地になっていた。

五箇 大かえで(千代里五箇)
110709 050 110709 039
すでにすべて落葉し終わっていたのでしばらくわからなかった。
まあ今回はロケハンということで。

千代里牧場
110709 064 110709 069
おもわずカルデラ跡か!と思いのほか、陥没地形だった。
牧場を横断して松原湖高原線に抜ける白石林道は乗用車
ではやめたほうがよさそう。
  1. 2009/11/08(日) 22:35:06|
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下赤塚富士・板橋区大門と赤塚再訪 2009年11月4日(水)

諏訪神社管理地・浅間神社(大門5)
110409 009
特別展「旅と信仰ー富士・大山・榛名への参詣ー」板橋区立郷土資料館(1996)
の講碑図を参考に、下赤塚富士を再訪しました。鳥居の奥が御嶽神社祀で、
右が浅間神社祀。左の祀は記載がなく、ここが十羅刹女堂なのかもしれません。
本エントリーの目的は、下赤塚富士を富士塚の記録手段の模式標本とすること
にあります。記事の追加だけでなく、写真の差し替えも考えています。

下赤塚富士の講碑一覧
比高4メートル、明治15年築のローム土主体の富士塚ですが、
講碑は22基が確認されています。残念、1基撮影もれでした。
01.jpg 02.jpg 03.jpg
①浅間神社碑(明治15年6月吉日)当山新築世話人(略)・村人中(略)先達春日粂吉
②日御子之碑 当村 春日智与
③食行身禄霊神碑(明治16年5月吉日)蓉行芙厚 耕石誠寛 春日[  ]

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④御嶽山鳥居建設記念碑 赤塚一山講社 寄附者芳名(略)
⑤鈴原大神宮碑(明治17年8月) 春日弥吉
⑥代参講中碑(明治42年6月)連名(40名)大門・野口世話人 田中彌三郎

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⑦奉納碑
⑧御室浅間神社大神碑(大正3年7月)御中道修行 本橋梅助 外17名
  先達鈴木石五郎 講元中田春吉

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⑨秋葉神社・高尾山・最乗寺碑(明治16年正月吉日)
  正一位秋葉神社 高尾山大聖阿遮羅明王 南無道了大菩薩
  願主鈴〔以下不詳〕
⑩ 角行霊神碑 下練馬村田柄講社中

11.jpg 12.jpg
⑪御座右浅間神社碑 上練馬村
⑫薬師嶽碑(大正5年8月)富士大々記念碑 越後山講社

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⑬丸吉講 亀石碑(明治17年10月末日)片山村 並木定右衛門
⑭丸吉講 烏帽子磐碑

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⑮小御岳神社碑(明治34年6月末日)
  大天狗・小天狗 当村松戸佑吉・春日平三郎・鈴木丑五郎
⑯南無妙法蓮華経 清正公大神碑(明治30年6月吉日)
⑰参明藤開山碑(明治42年7月)
  御中道修行 講元春日惣五郎・先達鈴木丑五郎・神拝講元中田春吉
  外8名

18.jpg 19.jpg
⑱和久泉碑 本橋亀吉・本橋〔 〕・松戸〔 〕
⑲釈迦割石碑

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(20)駒ヶ嶽碑
(21)(写真なし)泉ヶ瀧碑 赤塚川岸 稲垣金太

22.jpg
(22)開運大黒天碑 当村 中田彦七


[下赤塚富士・板橋区大門と赤塚再訪 2009年11月4日(水)]の続きを読む
  1. 2009/11/04(水) 18:51:57|
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おかがらび (大庭燎祭) 谷保天満宮 2009年11月3日(火)

谷保天満宮(国立市谷保5209)
110309 008 110309 190
南武線の谷保駅がyahoと呼ぶのは野暮なこと。駐車場隅に第六天神社。

110309 026 110309 044
タクリー号模型。そうか、車のお祓いはここでやらなくちゃ。
その背後に見える社殿が稲荷社・淡島社・蒼守社。

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梅林の中にある社だが、御幣のみで不明。聞くのを忘れてしまった。
拝殿のうらに厳島神社。そばに常盤の清水というのがあったが、池の
水がとてもきれいです。

110309 120 110309 071
狛犬の除幕式に遭遇してしまいました。平成21年11月3日の年記です。

110309 104 110309 176

110309 172 110309 204
通りすがりの自転車にフクロウのつがいをとまらせたおじさん。
16:34 マキの山に灯油をかけています。 [おかがらび (大庭燎祭) 谷保天満宮 2009年11月3日(火)]の続きを読む
  1. 2009/11/04(水) 00:25:35|
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