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お茶あがれ地蔵と最上稲荷東京別院妙経寺 2009年10月30日(金)

お茶あがれ地蔵(豊島区上池袋3-47-5)
103009 677 103009 689
『悲恋の伝説 池袋のお茶あがれ地蔵』 (北村正治著、 1960)という
ガリ版刷りの小冊子があります。文字起こしが行方不明なので後日。
(11月1日追記:以下全文転載。著作権については未確認です。)

武蔵国豊島郡の中心池袋は、長崎村から巣鴨新田へ通う道にあり、昔は雑木林の小高い
大地と沼沢で、谷端川の両岸にわずかに水田がひらかれていました。この谷端川も昔は
所々に広い沼をなしていて、実に、池の袋を形成していた様であります。
当地の住民は、高田方面から移ったと思はれる荒井氏や恩田氏、深野氏、岸野氏等がそ
の主流をなして定着し、いまもその跡が続いて居ります。
鎌倉時代からこの辺は交通の要路となり、谷端川に鎌倉橋の名も生まれました。いま、
川の一部は暗渠となり、この橋は除かれましたが、戦前までは、鎌倉橋交番が置かれそ
の名が伝えられていました。
徳川時代も中頃になると、益々交通も盛んになって、諸國の風が入る様になり、また、
この地の人も、物資交流の必要などから屡々他國へ旅することがありました。
享保の頃、この里の若者弥左ェ門も、時々信州から越後路や上方えも旅行しましたが、
そのうちに、定宿とする所も出来、或はねんごろにしてくれる者もある様になって、そ
こではいつも弥左ェ門の来るのを待っているのであります。そのうちの一人が越後の宿
の美女おこうでありました。弥左ェ門は、ひととせ越後に旅したとき、帰りに、このお
こうを伴ってきたのであります。
おこうは、弥左ェ門に対して、武州武蔵の國へお連れくださいどの様な苦労もいといま
せん、あなたのおそばで末永く働きます、というのでありました。
始めは、弥左ェ門も、それをほんとうにもしなかったし、その頃のならわしからすれば
、すべて習慣のちがう、しかも他國の人を連れくることは、家人や村の人達のそしりも
あり、これらを十分考えない訳ではありませんが、いかにも熱心なおこうのねがいと、
彼の女の気立てに、すっかりうごかされ、ついにおこうを連れてくることにしたのであ
ります。豊島の青年弥左ェ門は、このとき、おこうの人情にまけました。
この、越後の美女おこうが「お茶上がれ地蔵」伝説の主人公であります。
この様にして、おこうは、よろこびいさんで古郷を立ち、豊島の青年弥左ェ門に伴は
れ、途は程なく信濃路の、志賀や野尻をあとにして、人は何とも飯綱やま、右に拝むは
善光寺、二世安楽を祈念して、川中島の古戦場、渦巻き返えす犀川や、千曲の川瀬波
白く、そばの花咲く更級に、月の名どころおばすての、昔語りもいまはただ、身のゆく末も
白雲の、浅間の獄に立つ煙、もゆる思いをいだきつつ、小諸追分過ぎゆけば、馬子の唄
声おもしろく、駒のあゆみも軽井沢、碓氷の嶺をはやこえて、裾を流れる谷川は、この
世の塚のうすいかわ、岩にせかれる白波の、割れても末に逢はんとぞ、かすむ妙義や赤
城山、あなたとこなたを眺めつつ、旅を重ねて中仙道、したしい中も深谷宿、並木の松
を見返りつ、しばしあゆめばくまヶ谷の、土手の桜のかげみえて、旅のつかれもあら川
を越せばうれしい豊島郷、きのおを今日とあすかやま、王子巣鴨のこなたなる、さてし
も池袋の里に来たのでありました。
弥左ェ門はこのとき、これ程に決心して自分を慕うおこうと将来を暮すことは、この上
ないよろこびでありました。家人や村の人々の非難やそしりも、いまはものかわ、おこ
うと共に熱心に家業を励み、これ迄以上に精出して働く様になりました。
おこうは元来体格がよく、その容姿は人並以上にすぐれ、栲綱の白きただむきあわ雪
の、若やる肌のうつくしい、沼河姫もかくばかり、気立てやさしいめにしあれば、連れ添う
弥左ェ門に、真心から仕えるばかりでなく、家人や村の人々にも、心やさしく行きとどき、
野良の仕事もまめまめしく、たえてたゆまぬ働きぶりは、たちまち村里の評判となる程
でありました。
いまは仕合せに、弥左ェ門とむつましくその日を送ることになりましたが、ふと、どう
したことか、おこうは病の床につきました。かくては、つい野良の仕事も休みがちとな
り、さて思はずも永引けば、弥左ェ門や家人の世話になることが、つい日増しに多くな
り、おこうもそれをつらいことに想うばかり、もちろん弥左ェ門も心をいため、名医や
名薬とあらゆる手をつくしたのでありますが、不幸にして病は益々重るばかり、
それに、さしもすぐれた容姿も、疾みやつれ、また、顔かたちは、この病のために、
すっかり見にくく変ってしまったのであります。
ただかりそめと思いの外、さてそうなると弥左ェ門も家の人々も、実におこうの病気に
は、何ともいまは困惑し、ついには病気に対する困惑が、とうとうおこうに対する困惑
となってしまいました。弥左ェ門としては、おこうの心情を想うと、少しもうとんづる
気にはなれないのでありますが、さていまは、家人や世間の人達に何かとすまない気持
ちとなり、明け暮れおこうの枕辺に、なやみつかれたその末は、思案の胸もいっぱいに
なり、分別を保つ勇気はくぢけ、とうとう気の弱い弥左ェ門は、いとしいおこうをその
ままに、ひとりその身は旅の空、心のあてもなくなくに、雲をかすみと逃げ水の、行衛
も知れずなりました。(一説にが、名古屋方面かとも、或はむなしくなったとも云はれ、
絶えてゆくえは知れないのであります)
このとき弥左ェ門の家出には、家人は無論当惑し、おこうは更に悲しみました。しかし
それでも、おこうは弥左ェ門を決してうらまないのであります。うらまないばかりでな
く、ときにはこの様な病魔からのがれてくれて良かったとさい、ひそかに心のうちに思
うのでありました。
会者定離浮世のならいときくものを、ましてこの身のわずらいに、多く苦労をかけまし
た。すべて私の病故、予想もしない悲みが、なぜ人の世に起るのか、この様な病魔は、
せめては、私だけで亡さなければならない、やがて我が身は死滅する、それだけでも
病魔をこの世から退治することになるでありましょう、けなげにもおこうはこの様に悟り、
いまは、心強くも病苦を我身ひとつにしのび耐えたのであります。
ねがわくば、世の人々のこの様な苦難から救はれます様に、と、ここに諦観したおこう
は、村のはづれ、涯下の畦つぽ(方言)に小屋を結び、ひとりさびしく病躯を横たえ、
おちて流るる谷端川の沢辺にすだく虫の声、道ゆく旅の人影にも、もしや想いは弥左
衛門、いづれいかにと白雪の、つもるおもいはふるさとや、辿る浮世の山坂の、過ぎこ
し方をゆめみつつ、散るや波間にもみじばの沈む夕日の武蔵野に、たれ笧のたよりなく、
あわれむなしく消えて行ったのであります。
いうまでもなく、おこうは、この大地の小屋のところに葬られました。ときは元禄の頃
かといいます。それからというものは、このさみしい塚の辺から、道ゆく村の人々にお
茶を賜はれと言う声がきこゆる様になりました。生前お茶を好んだおこうの霊であると
いうことであります。こころ安くお茶を供養すると、おこうの霊はにっこりほほゑんで、
地蔵尊の温顔にみえたということであります。
この様なことから、よりより村の人々が相談して、おこうの家に、ささやかな地蔵尊を
立て、お茶を供えて祀ることにしました。たれいうとなくお茶あがれ地蔵と言う様にな
りました。これがこの地蔵尊の伝説であります。
この、お茶あがれ地蔵の塚といはれた所は、池袋五丁目四十二から四十五番地の辺に当
り、旧畑道を三十間程はいった台地にかかるところで元旧家の内墓のあった傍でありま
す。後に、始めの地蔵は不明となり、庚申供養塔だけが残りました。
世は変り時移って、昭和十二年、道路拡張工事のとき、その区域となり、豊島区は金三
十円の移転費を計上して、時の町会長天野氏がそれを受けましたが、適当な移転場所が
ないから取りはらってしまおうというので、土木工事が進み、愈々これを埋めるばかり
になりました。そのとき現場の模様を、古老や、附近の人について調べてみると、次の
様であります。
涯下の台地を切りくづすとき、五、六人の人夫が、段々塚に向って掘り進んでゆくと、
塚の土が、ガサッと大きく崩れてきた。・・・・・それ出たッといって人夫達はみな驚
いて逃げた、やがて、おそるおそる振り返ってみると、横穴の様で異様にみえた。そこ
で、塚も塔もそのままにしておいて、人夫も監督も翌日出て来ない、みな休んでしまっ
た。また、工事監督の夢枕に、瞭に地蔵の尊霊が顕はれ「吾は衆生の災難を除き病苦を
救はん・お茶を供えよ」とみえたというおであります。そこで驚いた人達は、埋めるこ
とを一応やめ、更に後日関係者が協議しました。その結果、隣家の古老荒井安久太郎氏
の発意で、とにかく地蔵尊を鄭重に祀るということにして工事を進め、古い塔は、同氏
の所有地で残存する町角の一画をあて、このところに移し、地蔵尊に近隣の石工の保存
していた温容をこいうけ、改めてこのところに塔と共に祀りました。それ以来香華また
絶ゆることなく病苦災難消除の祈願所となりました。供養は、町会の奉仕により毎月、
池袋四丁目、明王山重林寺の住職に依って勤修されています。
この伝説について、塚のところの地主にきいてみますと、あれは、みんな人々がさわぎ
すぎるので、伝説や風説が益々大きく広がったのでありますが、以前はそんなにさわぎ
ませんでした。細い笠付きの供養塔は、内墓の辺に元から在って、その傍に、たしか芋
穴があった所で、後に草など埋まって居た場所の様にも思います。伝説や風説は、どこ
までがほんとうのことであるか私にはよく判りません。と言われて居ります。
これによってみても、「以前はそんなにさわぎませんでした」と言はれ、全々話の種が
無かったというのではない様に受けとれます。ただ、同家では、なるべく肯定的ではな
いということなのであります。しかし、その他の古老や、附近の人達は、ほとんど肯定
派であって、実にこの伝説に同情を寄せているのでありまして、そこに、意味深いもの
を感ぜざるを得ない訳であります。
笠付きの塔は、種子大日如来 奉供養庚申石塔息祈所 宝永元甲申五月吉祥日(巾四寸
五分・高サニ尺五寸程)ささやかなもので、これによりこの処は、瞭かに、まつりの庭・供養
の場であったことを示しています。おそらく、始めに先づ、地蔵の信仰が生れ、
次に庚申供養塔が加えられ、祭祀の場所とされて居たことが窺えるのであります。これ
を要するに、豊島区が、移転料まで計上しているのでありますから、古い塚や塔があっ
たことは確かであり、工事中に、それ出た といって人夫が逃げたいうことは、おそら
く既に古くからここに同情を禁じ得ない悲話の母体があって、それを前提として(その
史実の全部をは肯定しないまでも)何程かはみなこの地方の人々が、日常予知していた
ことの心理的な顕はれであったのではないかということが、十分推考されるのでありま
す。そうであればこそ、工事関係者の夢枕にも立ったのではないでしょうか。この地方
の人々や、旧家の間に於いては、誠に同情を以てこの話を肯定して居ります。
ただその、関係かと思はれる家筋の人だけが、つとめて否定的であることは、返って、
左こそと憶はれるくらいであります。そこで、この史実の、どこまでが真であるかは姑
く別として、いまお茶あがれ地蔵尊が、現に祀られている事実に対し、私は特に、この
話をとりあげたものであります。俚俗巷間の口碑伝説もまた一概に捨てる訳にはゆかな
いのであります。まして風説をや。
地元の古老、荒井安久太郎氏は、この伝説の薄命孤独のおこうに同情し、その霊を慰め
るため、ふるい昔の悲恋を考慮し、更に、石の地蔵一体を刻み、おこうの地蔵尊に添え
ました。それは、昭和十二年秋のことであります。
南無大慈大悲の地蔵尊一唱一礼生功徳
この様にして、悲恋の伝説おこうを祀るお茶あがれ地蔵尊は、放射能の塵界に香煙細く
立ちのぼるところ、この池袋の路辺に立ち、移り行く人の世の流れを、またいつまでも、
見守っているのであります。
吾は衆生の災難を除き病苦を救はんと。


最上稲荷東京別院妙経寺(上池袋3-8)
103009 702 103009 709

103009 712 103009 742

103009 791 103009 799

子安稲荷神社(上池袋2-38-10)
103009 809 103009 820
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  1. 2009/10/31(土) 23:58:02|
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雑司が谷霊園と鬼子母神堂 2009年10月30日(金)

雑司が谷霊園
103009 299 103009 327 103009 344
護国寺のあと、雑司が谷霊園で松本訓導虎雄の墓(1-16-19)を訪ねました。
鬼あざみ清吉(1-8-5)。小泉八雲(1-1-8)。

103009 313 103009 349
荻野吟子(1-5-23)女医第一号。金田一京助(1-22-5)。

山鳥稲荷大明神(豊島区南池袋4-2)
103009 365 103009 368
霊園管理所の前を下って清立院の正面にある。
参道階段が道路で分断されて境外社になったように見える。

大鳥神社(雑司が谷3-20)
103009 380 103009 403
都電荒川線に面しており、北東と南西の参道には鳥居がない。
境内社は三杉稲荷神社。 [雑司が谷霊園と鬼子母神堂 2009年10月30日(金)]の続きを読む
  1. 2009/10/31(土) 20:51:03|
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大本山護国寺 2009年10月30日(金)

仁王門と惣門
103009 005 103009 015


富士浅間神社(音羽富士)
103009 028 103009 048
案内板ではないことにされているが、なぜなんでしょうね。
護国寺本坊新築を記念し、富士山登山道修復及び社殿を再興す
平成元年7月吉祥日


103009 074 103009 014
御頂上大石という石碑があるが、奉納の植木屋は
染井駒込かと思えば牛込のほうでした。

観音堂(本堂)
103009 176 103009 186
大寺院の本堂など、見るべきものはなかろうと思っていたのですが、
外陣の柱が京都の千本釈迦堂を思わせ、擬宝珠には元禄10年6月
とある。木のやせ方で時代を想うのが好きですね。震災戦災を生き
ぬいてきたというたしかな手ごたえがありました。

名物石燈籠
103009 169 103009 217
大正11年、箒庵高橋義雄が寄進した名物石燈籠の模造品。
茶庭に配する石燈籠のカタログというべきものです。
本堂の東側に立派な墓地が続きますが、これは山縣家累代之墓
にあった夭折した子供の墓石。山縣有朋の墓とは位置が違う。

大隈重信墓
103009 223 103009 231
立派な鳥居の後ろに回れば奉納は早稲田大学。
もう神社にしたほうがいいのではないか。
三條實美の墓にも鳥居があります。

音羽講中庚申塔
103009 263 103009 258
観光客はまず来ないような場所に、案内板はちゃんとある。

吹上稲荷神社(大塚5-21)
103009 637 103009 666
護国寺から豊島ヶ岡御陵をはさんだ東の崖線にある。
  1. 2009/10/30(金) 22:26:22|
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人喰い川紀行・玉川上水 2009年10月24日(土)

「玉鹿石」太宰治・山崎富榮投身の現場
102409 028  102409 035
前日の松本訓導殉難碑の続きです。

むらさき橋から風の散歩道(笑)を三鷹駅にむかう路上。
太宰治と山崎富榮が1948年6月13日入水した地点という。
(ぎょっかいし)青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月
銘板にはこれだけが記されている。玉川右岸、草木繁茂して水面
は望めない。なお、わたしは太宰に一切思い入れはありません。

水難者慰霊碑(杉並区久我山1-10)
102409 049  102409 052
玉川上水の兵庫橋上流右岸の柵内に斜めに立つ。
アイヌ学の金田一先生が、昭和24年投身自殺した愛娘への弔歌を記す。

うれひなく さちかきりなき あめのくにに
     さきそひいませ とはやすらかに   金田一京助
              昭和廿七年十二月 杉並文化新聞社建之

柵を乗り越えないと読めませんな。

(以下当年11月21日追記)
当時の新聞記事を読んでみました。60年経過したこともありますが、
すでに歴史世相の事象として記憶されるべき事柄だと判断して掲載
します。この年11月3日には太宰の墓前で田中英光が服毒自殺して
います。アドルム自殺が流行していたころです。

昭和24年12月26日(月)朝日新聞(東京)7版
金田一博士の四女自殺
一部既報=東京都杉並区東田町一ノ一一五東京工大助手金田一正弘氏若葉夫人(二九)=学士院会員金田一京助博士の四女=は、二十三日午後一時ごろ「買物に行く」といって外出したまゝ帰宅せず、午後六時ごろ帰った正弘氏が自殺するむねの遺書を発見、杉並署に捜索願を出した 一方同日午後五時ごろ井之頭公園御殿山裏、玉川上水を流されていく若い女を通行人が発見したが、急流のため救い出せず姿を見失ってしまった。
付近から拾い上げられたゲタを見て正弘氏は、若葉夫人が投身自殺したのだろうと語ったが、死体はついに発見されなかった 夫人の遺書には「私にまとわりつく寂しさが無の世界へ誘うのです 性格が現実を拒否するので、現実が悪いのではありません」と記されてあった

読売新聞1949年12月25日朝刊
金田一博士の愛嬢自殺 『宿命の淋しさ』から玉川上水へ
杉並区東田町一の一一五工業大学助手金田一正弘(二九)氏の妻若葉(二九)さんは廿三日午後一時ごろ〝福引をひきにゆく〟といつたまゝ家出した、夕刻五時ごろ帰宅した正弘氏が杉並署に捜索願を提出、捜査を開始したが同日午後五時十分ごろ井ノ頭公園御殿山裏の玉川上水万助橋付近を流されて行く若い女を通行人が発見したが、急流のため救出できずそのまま下流へ姿を見失ってしまったが現場に急行した正弘氏が拾いあげられたゲタを見て若葉さんと確認さらに自宅に遺書があったことから投身自殺をとげたものと判つた 若葉さんはアイヌ語の研究家として有名な国文学者、文博、学士院会員金田一京助(六八)氏=現在国学院教授=の一人娘だが昨年十二月十五日正弘氏と結婚、両親と前記住所に同居していた タンスの中から発見された両親と正弘氏にあてた遺書には「私につきまとうしつような淋しさ・・・それから逃れるには生も無も怒りも悲しみも訣別もない〝無の国〟へ行くより仕方がありません、このような淋しさは子供のころから持合せた宿命的なもの、決して境遇のせいではございません、最後まで悪い妻でしたことをお許し下さいませ・・・」とあった

兵庫橋より下流を望む
102409 042
放射第5号線の道路モデル整備事業というよくわからない工事現場があった。
橋の下流は植栽が刈られて護岸整備に入るのだろうか。水嵩がもっと高くて
急流だった当時はたしかに人喰い川だったんだなと、護岸の傾斜で納得。

和田掘調節池(大宮2と大宮1)
102409 080  102409 086
話変って善福寺川畔を移動中。
和田掘第六号調節池(軟式野球場2面)と和田堀調節池壁打ち庭球場。
運動場を兼ねた調節池の実物を見るのは初めてです。

川中投身亡者供養塔(杉並区立郷土博物館)
102409 090  102409 096
杉並区立郷土博物館(大宮1-20-8)は入館料100円。
しかも館内撮影禁止。今どき何だよと思い、“許可とって”禁止表示を撮影。
撮影したいと思ったものは外にありました。しかも玉川上水関連。

玉川上水で死んだ人を弔うために、環八中の
橋(高井戸西1-1)に立てられていたものです。(解説板)
  1. 2009/10/24(土) 14:47:36|
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井之頭公園 松本訓導殉難碑 2009年10月23日(金)

松本訓導殉難の碑(井之頭公園万助橋近く)
102309 212 102309 213

松本訓導殉難の碑
大正八年十一月二十日(1919年)東京府麹町区
(現在千代田区)永田町小学校全校児童は、井の頭
公園に秋の遠足を行なった。当時の井の頭公園は都
心から離れた郊外で来園する人も少なかった。従っ
てこの遠足は文字通りの遠出で、児童達は大変期待
していたものである。
 到着後、喜びのあまり遊びに夢中になっていた一
児童が足をすべらせて玉川上水の急流に落ちた。
 急を聞いた松本虎雄訓導は、わが身の危険もか
えりみず上水に飛び込み児童を救おうとしたが、急
流にのまれて殉職した。時に三十三才であった。
 命を捧げて児童を救おうとした尊い行為は、人々
に深い感銘を与えた。松本訓導の児童愛に燃えるこ
の勇敢な行為は、教師のかがみといえるものである。
 これを後世に顕彰するために、殉難のあったこの
地に記念碑が建てられたのである。 東京都

わたしの感想は○○○に尽きるわけだが、自力で助かった
児童にとってはずいぶん重い十字架だなと思うわけです。
感動すると見えなくなるものが多すぎるね。

*碑文の写真判読では読めない部分があったので、翌24日再訪して確認した。
あたうかぎり字体に忠実をと心がけたが、完璧ではありません。


文部大臣正四位勲二等中橋徳五郎篆額

大正八年十一月二十日東京麹町区永田小学師生六百余人遊観郊外井頭公園訓導松
本君與焉既至羣童四散歓然嬉戯園外有玉川雨後水漲流急両岸芒蒲茂密掩水一童謬
墜君遥見之狂犇往拯躍投水則童扳芒而浮為路人所援免而君則遂漂没不知所之衆錯
愕駆役鉤探遺骸詰且纔得之事一伝世識與不識莫不感其義惜其死至賻弔唁者陸続不
絶越九日本区用区費葬雑司谷塋葢異数也君諱虎雄号風外松本氏信州上水内郡津和
邨人考諱真弦通和漢学尤篤尊王之義先二月没母保科氏一男一女男即君君純謹孝友
喜趨人急畢業東京青山師範校歴任府下小学訓導其交同僚也信視諸生也慈為衆所仰
服距生明治二十年一月六日齢三十三未娶無子君幼嗜學好讀東西理學書公餘與同人
設修養団為幹事盡瘁十数年意在国正世道人心其趨義殉難葢所養有素云頃區内志士
相與捐資樹碑川上亦感其義也以銘属餘餘困往観玉川深廣倶十餘尺盤渦而流士人云
傍底硬土滑利危険無比一溺雖習泅者皆不能免稱曰食人川嗚呼危険若是投入非可得
而拯況不審童之状乎夫能無軽率之嫌雖然職分之所存惻怛之情之所激忘身冒険而不
顧義純情摯又何軽率之有宜矣動人之深且大此可以銘也已銘曰
殺身成仁君斃其仁處死實難君就其難庠序林立教化未美釣利媒私
往往而是嗟君千秋不朽凛乎其躅以矯澆風而驚薄俗

大正九年十一月 東京女子高等師範學校 教授正六位細田謙 撰
             東京女子高等師範學校 講師 岡田起作 書

                                 井龜泉刻


親之井稲荷尊
102309 013  102309 040
弁財天尊の対岸にある。

井之頭弁財天尊
102309 086  

明静山大盛寺と弁財天参道
102309 162 102309 159
嗅覚が働いて弁財天の前の階段を上がると雑然とした場所だった。
大盛寺は弁財天の別当寺だということだが、子院のような関係か。

102309 193 102309 168
神道の名残りはここにあった。鳥居がどこに建てられていたのかは不明。
しかしこの石鳥居講碑、よくきれいに残されていたものだなあ。
これだけ大きな宇賀神像はそうそうないだろう。

御殿山遺跡とお茶の水
102309 262 102309 266

ハンモックカフェ・マヒカマノ(吉祥寺南町2-8-1サンパレス)
102309 274
大人気のようだ。本日はここで友人と会うことになっていた。
  1. 2009/10/23(金) 21:35:02|
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板橋区徳丸から四葉 2009年10月20日(火)

徳丸北野神社(板橋区徳丸6-34-3)
102009 090 102009 063
こちらも田遊びで名高い。道路をはさんだ参道には天王社。

102009 068 102009 070
徳丸出羽三山神社。

102009 127 102009 160
左から水神宮(写真なし)、稲荷・杵築神社、三峯神社、天祖・石上神社。
稲荷神社、須賀神社、祖霊社、小祠の塚。

稲荷神社(徳丸7-15)
102009 178 102009 192
畑地の斜面下、偶然見かけたので。

不動の滝(赤塚8-11)
102009 210 102009 213
大山詣りや富士詣りの禊ぎ場だったらしいが、今はこの水量。

板橋区立郷土資料館(赤塚5-35-25)
102009 258

102009 288 102009 291
古民家の後ろにあった出世稲荷神社らしきもの。
どこから持ってきたのかわかりませんと言われてしまったが、
収蔵品の台帳くらいあるだろうに。
[板橋区徳丸から四葉 2009年10月20日(火)]の続きを読む

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  1. 2009/10/20(火) 21:59:13|
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板橋区赤塚から大門 2009年10月19日(月)

赤塚山慶学院乗蓮寺(板橋区赤塚5-28-3)
101909 047 101909 015
いわゆる東京大仏のお寺です。

101909 002 101909 032
天保の大飢饉供養塔。こちらは弁天池のようです。

萬吉山宝持寺松月院(赤塚8-4-9)
101909 123 101909 325
千葉自胤公のお墓があります。

赤塚城主 千葉自胤の墓
享徳・康正のころ、鎌倉管領上杉氏と古河公方
足利氏の争乱は関東を二分し、名族・千葉氏も一
族が双方に分属し、骨肉相い喰む争いの結果、康
正二(一四五六)年、自胤方は戦い敗れ傷心の身を
上杉方の柱石・太田道灌に護られて赤塚城に移り、
勢力を挽回して南武の大豪族となった。自胤は近
くの宝持寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、寺号
を松月院と改め曹洞宗に改宗させ、自ら中興開基
となる。三基ある墓碑のうち、右が自胤(一説に
自秀ともいう)、中が奥方龍興院殿、左の宝篋印塔
が比丘尼了雲、区内最古の墓である。
平成四年四月  板橋区教育委員会

101909 076 101909 095

高島秋帆先生紀功碑
この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、
ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的
な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で
大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄りの名家に生まれ、
長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天
保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、
西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧
が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕
府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、
西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事
技術の導入を説いた。
 天保十二年五月七日~九日までの三日間、高島秋帆
は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門
弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳
丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得た
が、まもなく讒言にあい永牢に繋がれた。
 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆
は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師
範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に
貢献した。慶応二年正月江戸小石川にて六十九歳の生
涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農
砲を碑心に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にの
せた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴す
る。総高六メートル。

101909 101
豊川荼枳尼真天。
[板橋区赤塚から大門 2009年10月19日(月)]の続きを読む
  1. 2009/10/19(月) 21:17:33|
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大〆縄神事 奥戸天祖神社 2009年10月17日(土)

101709 134 101709 014
奥戸天祖神社(葛飾区奥戸2-35-16)の例大祭初日、
大〆縄神事が行われました。

101709 011 101709 025
注連縄の芯となる金属筒。昔は竹芯でしたが、これほどの竹は入手困難とか。
青味を帯びた藁束は綯い始めに用いられることになります。

101709 034 101709 074
旧年の藁はどこで焚くのかしばらくわからなかったのですが、
10時20分ごろ、社殿の後ろ、塀越しに火が見えているのに
気づきました。千把こきで藁束を整形する作業が続きます。

101709 126 101709 130
子供たちに教えたり、ひたすら作業に集中したり。

101709 254 101709 228 
13時拝殿において式典が始まります。堀切氷川神社の宮司さま
が参集されていましたのでご挨拶を。 [大〆縄神事 奥戸天祖神社 2009年10月17日(土)]の続きを読む
  1. 2009/10/18(日) 23:03:05|
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秘仏「都市の神」 ファーレ立川 2009年10月13日(火)

99 「都市の神」 ロベルト・G・ヴィラヌエヴァ
101309 050

101309 038 101309 154
Robert.G.Villanueva
ファーレ立川開業記念日の本日のみ御開帳の両性具有神であります。
北川フラム氏のプロデュースによる都市景観を巡ってみました。
午後1時半からガイドツアーがあったようです。

105「ウサギとカメ」藤原吉志子
46「立川の動物たち―羊」ゲオルギー・チャプカノフ

101309 134 101309 003


73「見知らぬ人々」 サンデー・ジャック・アクパン   
72「会話」 ニキ・ド・サンファル

101309 061 101309 068


19 「最後の買い物」 タン・ダ・ウ     
21大岩オスカール幸男

101309 079 101309 107

29「タチカワの女たち」エステル・アルバルダネ
101309 086

109 ヴィト・アコンチ
101309 105 101309 126

タイトルがあるようでないような。

作品リスト

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  1. 2009/10/13(火) 18:30:56|
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誕生八幡神社例大祭 2009年10月4日(日)

誕生八幡神社
100409 033 100409 038
なぜか街っぷる東京23区に載っていない誕生八幡神社。
この子供神輿はいわゆる樽神輿ですが、何の樽だろう。
本日出るのは本社神輿のみ。

国立自然教育園(港区白金台5-21-5)
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時間があったので自然教育園へ。白金御殿富士見稲荷というのがあると、
何かでメモしていたのだが、ガセだったみたい。大蛇の松と物語りの松。
松平讃岐守の下屋敷の面影を伝えるとか。

西口町会神輿
100409 215 100409 254
この神輿がJR目黒駅のコンコースを巡幸する、はずだったのですが、
昨年かなり無茶をしたため今年は中止、部外者も厳禁ということでした。
神社前の休憩で鳳凰が拝殿に正対できないのは残念だった。
木札に 寄贈 きはる旅館 神尾春枝 とあります。
御神輿師は浅草の岡田屋布施。

100409 529 100409 567
目黒駅東口では目黒通りに面して休憩を取り、ロータリーを一周
してそのまま権之助坂を下って行きました。東口前で差し上げくらい
するかと思っていましたが拍子抜けでした。

本社神輿
100409 370 100409 415

100409 659
本社神輿は西口町会神輿に続いて来ましたが、目黒通りの
反対車線で休憩し、なかなか動くそぶりがありませんでした。
こちらは東口ロータリーには入らず、東急目黒駅前で差し上げを
行い、横断歩道を渡り、西口町会のお神酒所に向います。
  1. 2009/10/04(日) 21:05:04|
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目黒駅周辺 2009年10月1日(木)

誕生八幡神社(品川区上大崎2-13-36)
100109 002 100109 016

100109 018 100109 009

JR目黒駅東口と西口
100109 053 100109 039
駅のコンコースを確認しました。

松林山大圓寺(目黒区下目黒1-8-5)
100109 070 100109 130
行人坂の途中にある。行人坂大火(1772年)の火元。
五百羅漢はその犠牲者の供養とか。

とろけ地蔵 
100109 087 100109 124 
舟形光背といい、地蔵のとろけ方といい、今まで各所で
見てきたものとあまりにも共通している。
品川の海で漁師が引き揚げたという縁起があるが、それに
しても不可思議。

参考
042709 274 062309 085 073009 525
左から
天祖神社(北小岩6-39)上小岩観音
覚王山真福寺(江戸川6-23
小松川神社(小松川3-1-2)


100109 157
目黒川のむこうにお城が、違うか。 [目黒駅周辺 2009年10月1日(木)]の続きを読む
  1. 2009/10/01(木) 18:41:28|
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