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台東区寿・元浅草・東上野 2008年11月28日(金)

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長瀧山本法寺(台東区寿2-9-7)。日蓮宗。本日は熊谷稲荷ご眷属大祭。

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はなし塚
この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目に自粛を強いられていた。落語会では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局に合わないものとして花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺等五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作といわれた「明烏」「五人廻し」「木乃伊取」等を含み、高座から聴けなくなった。
「はなし塚」は、これら名作と落語界先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本などが納められた。
戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。
平成十六年三月 台東区教育委員会


裏にこう刻まれているとネットで拾ったが、実見出来そうに
ない位置なのでそのまま転載しておく。

昨年九月東京落語家全員は国家新体制に即応し五十三種の落語禁演を
自粛協定して職域奉公の実を挙げたり乃是を記念し併せて葬られたる名作
を弔い尚古今噺等過去文芸を供養する為め詳細記録類を埋めて建碑し以っ
て菩提に資すと爾云。



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こちらは吉見稲荷。わきに石の祠社が添う。


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法要中のお堂の左右に稲荷社があった。熊谷安左衞門廟處という石柱。

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左の社は 平成十九年初午 奉納 吉元正信米寿の砌 とあり、台石は古い。

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お伽丸柳一の碑。昭和初期の曲芸師か?皿回しの絵がある。復度石。百度石。

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白稲荷(台東区元浅草3-19)。酒店が伏見稲荷から勧請した
内祀りの社だということです。


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孫三稲荷(台東区元浅草3-19-7)。


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出羽稲荷。徳寿稲荷。福森稲荷。三社合祀。
日蓮宗法泉寺(台東区元浅草1-14-3)。


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西町太郎稲荷神社(台東区東上野1-23-2)。
[台東区寿・元浅草・東上野 2008年11月28日(金)]の続きを読む
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  1. 2008/11/28(金) 19:10:16|
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西日暮里・谷中寺院めぐり 2008年11月26日(水)

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本覺院の忍岡稲荷を再訪する。東叡山総鎮守 忍岡穴稲荷尊

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昭和10年の奉納だった。左下の貼付木片に記されていた。

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厳有院(家綱)霊廟勅額門を過ぎて東叡山浄名院に至る。

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伏見稲荷。石大黒天。

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地蔵菩薩総本堂。

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弘法大師堂。

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了俒寺。功徳林寺。

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功徳林寺の笠森稲荷。

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常在寺。蓮葉山観音寺。

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観音寺ご府内八十八箇所の内第四十二番札所。

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長光山龍泉寺。


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龍泉寺の妙鶴観世音菩薩。

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経王寺の大黒天讃額。

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本行寺の伊勢丹社員の墓ふたたび。

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養福寺の自堕落先生の墓。
[西日暮里・谷中寺院めぐり 2008年11月26日(水)]の続きを読む
  1. 2008/11/27(木) 01:01:14|
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本行寺 (伊勢丹社員の墓) ・諏方神社 2008年11月25日(火)

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FinePixS3Pro の修理後のテスト撮影ということで、
谷中方面に行く前に西郷どんと彰義隊をすこし。

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京成上野駅から日暮里まで乗って、旧博物館動物園駅をちらと見てから
日蓮宗の長久山本行寺(荒川区西日暮里3-1-3)へ。

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賽銭ではなくて香資。

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永井尚志墓。

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市河寛斎墓。

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市河米庵墓。

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大震災のとき、伊勢丹がここを避難所としたということは知っていたが、
伊勢丹社員の墓があるとは思ってもいなかった。この寺は小菅本家の
菩提寺だという。日差しが強いので部分的にしか撮れません。

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墓石の横には小菅家忠勤者之墓と大正七年二月廿五日建之とあり。

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しまった、撮り直しだなこりゃ。それにしてもあまさけや呉服店と
伊勢丹呉服店が並んでいるとは意外な収穫でした。

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道灌丘碑。

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墓誌まで備えたペットのお墓は初めて見ました。 [本行寺 (伊勢丹社員の墓) ・諏方神社 2008年11月25日(火)]の続きを読む
  1. 2008/11/25(火) 21:21:45|
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上野公園・清水坂・上野桜木 2008年11月21日(金)

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神田駅から例の不明社( 神田東松下町)を通る。
敷地内の椅子?は六角形の灯籠だったのか?

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神田ふれあい橋から和泉橋を望む。先日のボートの折り返し地点でした。
外神田3-12。建設中の住友不動産秋葉原ビル(日本通運旧秋葉原本社ビル、
ヤマギワ別館跡地)。献花台はもう撤去されているみたいだな。

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秋葉原UDX前の千代田海藻(外神田4-2-6)。 亀住稲荷(外神田5-4-8右)。

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この細身のお狐さんは昭和45年2月吉日 鈴木静 奉納。

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この水盤は大正14年5月神田區亀住町の中野保温コンクリート工業所の奉納。

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上野中通りからアメ横の道に摩利支天徳大寺(上野4-6-2)があった。

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左から日蓮聖人、七面大明神、妻戀地蔵。

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浄行菩薩。

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上のタワラ屋、松茸大人気。   不忍池は蓮枯れの冬。

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忍岡穴稲荷へ。

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穴の中の御神体は、ストロボがケラレるのでカメラを逆さにしてやっと撮影。


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伊藤博文の神徳惟馨の扁額。駒込の染井稲荷にもあるみたいだな。

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水盤は大正13年1月14日で奉納者は不明。穴稲荷の上にある社はこのくらいしか見えない。

花園稲荷神社の御縁起 より御由緒
御創祀の年月は不詳です。古くから此の地に鎮座し、忍岡(しのぶがおか)稲荷が正しい名称ですが、石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていました。承応三年(今から三百四十年前)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が霊夢に感じ(家光の命とも云う)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護(まもり)の神としました。幕末、彰義隊の戦では最後の激戦地(穴稲荷門の戦)として知られています。後、明治六年に岩堀数馬、伊藤伊兵衞等の篤志家によって再興され、花園稲荷と改名、五條天神社が現地に御遷座になるに及び、社殿も南面して造営され神苑も一新されました。(旧社殿は俗称お穴様の処です)
お穴様の左奥にありますお社は、古書に弥左衞門狐と記され、寛永寺が出来る時忍岡の狐が棲む処が無くなるのを憐れみ、一洞(ほこら)を造り社を祀ったと云われます。
社地はお穴様を中心にし約二千坪(今の精養軒や韻松亭を含む約六六OO㎡)ありましたが、明治の上地の為、現在は五條天神と併せて約一千坪になりました。



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公園に面した鳥居は昭和十四年五月吉日建立。
狛犬はなんと宝暦三癸酉十月吉日(1753年) 願主野木氏。

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上野大仏では絵馬を奉納する人が。合格祈願みたいだな。


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[上野公園・清水坂・上野桜木 2008年11月21日(金)]の続きを読む
  1. 2008/11/21(金) 23:05:12|
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新宿伊勢丹屋上 2008年11月19日(水)

お歳暮ギフトセンター開設日だったので新宿伊勢丹へ。
驚いたのはおせちの予約で地下に行ったら、毎年恒例の三段重の
在庫が僅少で、他店との調整であやうく間に合ったこと。
あとで通ったらもう見本が下げられていて、最後だったんだと納得。

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屋上の朝日弁才天。幟とか立ててほしいな。

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朝日弁才天の由来
 大田道潅が江戸城築城のさい
鬼門よけに弁才天をまつった故事
にちなんだものです。 ある僧侶
が、 霊験あらたかな弁財天を
伊勢丹の守護神としてまつるよ
うすすめられ、明治三十年頃
市ヶ谷のあまざけやに鎮座して
いたものを、昭和八年新宿進出
と共に、本館屋上におまつりい
たしました。この弁才天は徳川
初期のものといわれ、火災を除
く火伏せの神様、又一方では商
売の神様ともいわれています。


ある僧侶が、・・・誰も推敲しなかったのだろうか。
「伊勢丹百年史」によると、明治28年あまさけや呉服店
を買収したが合併はせず、大正13年閉店まで続けた。

*あまさけや(福永儀八商店)牛込区市谷田町二丁目14,15

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弁財天と並び立つように、店祖 小菅丹治翁像が。
明治19年、数え28歳で独立。屋号伊勢屋丹治。明治21年ごろから3年間ほど、
丹治は旅籠町の店頭を終えてから神田川の柳原土手(江戸以来の古着市場)
で戸板に桐生、足利の木綿や織物を並べて売っていた(「伊勢丹百年史」)。

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なんか物足りないなと思ったら鳥居がなかった。
初代小菅丹治は熱烈な日蓮宗の信者で、田中 智學に師事
したというから、弁財天も微妙な立場にあるのかもね。
  1. 2008/11/20(木) 14:33:50|
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日本橋界隈・慶應医学会総会 シンポジウム 2008年11月14日(金)

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白旗稲荷神社(日本橋本石町4-5-16)


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福徳神社(日本橋室町2-3-16 三井6号館 福徳茶屋内に仮安置中)


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日本橋三越


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屋上にある三圍神社と活動大黒天。


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西河岸延命地蔵尊(八重洲1-2-1 公開空地)
 

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榮太楼の赤玉石。


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旧村井銀行の入口跡(日本橋1-7-17日本橋御幸ビル)。
なんの説明板もありません。


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三浦按針屋敷跡(日本橋室町1-10-9)


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常盤稲荷神社(日本橋本町1-8-11)
奉納額に室町砂場が。

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小網町児童遊園を見て、ここが日本橋川から小舟町への堀割り跡だなと思ったら、
高潮防潮扉という水門があった。鎧橋を渡って正面から撮影するには私有地を
通らないと無理です。

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小網神社(日本橋小網町16-23)


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銀杏稲荷・銀杏八幡宮(日本橋蛎殻町1-7)


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茶の木神社(日本橋人形町1-12公開空地)


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喫茶ワコーでチキンライスとブレンドで930円。
神田駅から信濃町の慶應義塾大学病院に。
15時から第88回慶應大学医学会総会・シンポジウム
『新興・再興感染症とその対策』が開かれ、
菅谷憲夫さんの講演「新型インフルエンザとその対策」を聴講しました。

16日追記:レジメから引用する。
新型インフルエンザは「最強ウイルス」であり、死亡率は20%で、数百万の
日本人が死亡するというようなことが信じられるようになれば、日本の新型
インフルエンザ診療は、流行前から崩壊することになる。


Phase6 のウイルスの感染防止、封じ込めは不可能。外来と入院治療の確立が急務。
Lowy研究所の、日本で214万人の死亡者という数字は、疫学の研究ではなく、経済的
影響の検討であって、パンデミックの死亡者数の予測ではない。
菅谷氏はスペイン風邪の経験予測 12万人(4万人~30万人)が最も信用できると考え
ている。1999年A香港型シドニー騒動の死亡者数は3万2000人に過ぎない。
H5N1の新型インフルエンザ化には専門家の間でも懐疑派が増えてきている。
2003年来、H5N1の感染例はたった387例。専門家の感想は「たった」。
抗原循環説では次期新型インフルエンザ候補はH2型(アジアかぜ)となり、1968年
以降に生まれた世代に大きな被害が出る。
新型インフルエンザ用ワクチンは日本では全粒子ワクチンWVで、小児には接種できない
可能性がある。
国産のプレパンデミックワクチンはあまりにも効果が低く、現状では人に打てるワクチン
ではないとまで断言された。さらに抗原原罪説からの問題として、鳥インフルエンザH5N1
ベトナム株で最初に免疫を獲得すると、人インフルエンザ対応のワクチンを接種しても
ベトナム株への抗体だけが上昇してしまう可能性がある。
  1. 2008/11/15(土) 21:07:47|
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体験!日本橋川・神田川ミニクルーズ 2008年11月9日(日)

ヤマハのマリンクラブ・シースタイルが、江戸東京観光舟運シンポジウムとのジョイント企画で運河クルージングをするということを、つい数日前に知って、土曜日は常盤橋まで行って中止と聞き、では日曜日にと参加してきました。ところが参加者はわたしと事務方の二人だけで、帰りのコースも予定者がいないので、神田川の和泉橋から日本橋川の常盤橋まで往復することができました。

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常盤橋の防災船着場から出航。

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(右)ボケてるが、木製もしくは石造りの排水口(吐樋)
ではあるまいか?まさか、いや。


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家内喜稲荷神社(日本橋室町4-2-12)
  1. 2008/11/12(水) 00:43:50|
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神田小社めぐりとパレスサイドビル 2008年11月7日(金)

注:ほとんど一眼で撮影していますが、画角が異なるのはコンデジ撮影分です。

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震災記念碑。東京メトロ千代田線新お茶の水駅B3出口。

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「めん徳二代目つじ田」(小川町1-4)に11時過ぎに行ってみたら5人並んでいました。
席数16、従業員8名。ステンレスは、きれいにしている。二代目つけめん(1,080円)を
いただきました。スープは「青葉」の味が決まらなかったときのような印象でした。


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聖観世音(神田淡路町2-23) 観音坂上の辻にある。


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快晴になってきたので雉子橋を渡り、

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毎日新聞社パレスサイドビルに来ました。

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屋上ではみんな飲食してますが。

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毎日神社(千代田区一ツ橋1-1-1 パレスサイドビル屋上)

毎日神社 由来
本神社は昭和十四年、(一九三九年)十月二
十日毎日新聞社機「ニッポン」号による同社
主催 世界一周大飛行の完成記念として創建
された 祭神は天照大神 産土神日枝大神な
らびに飛行の平安完遂を祈願し全国読者から
寄進の御神符が奉安されている
同航空機は中翼単葉の双発機で翼長二五㍍
・全長一六㍍の純国産 当時の日本航空科
学の粋を集めて製作された 全航程五万三
千㌔ 北太平洋横断無着陸飛行に成功 空
の難関といわれた南米アンデス越えの新記
録や大西洋横断の快記録など 世界航空史
に不滅の光彩を放っている

祭日 例大祭十月二十日 月例際二十日


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本当はネ、撮影禁止なんです。皇居側には(と言っても東御苑に皇室がいらっしゃる
わけでもないのですが)警備員がおりまして、ひとまず注意はされます。
NHKがここを紹介したために、大量の一般客がおしかけて撮影するもんだから、
しかるべきところからクレームがついてその対処が撮影禁止の表明というわけです。
だから1階の受付で撮影の許可を願い出ても、一切許可されることはないとビル管理
から返答されることになるのです。ここから先は以心伝心、阿吽の呼吸の世界です。
それにしても屋上の開放時間の皇居は強い逆光になるので難しいね。
不二ラテックスのビルもあります。

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妙法衛護稲荷(神田神保町3-29)


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日本橋川を俎橋に歩く。

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九段下ビル(神田神保町3-4靖国通り)
ネットがかけられているが、もう取り壊しということなのだろうか。
背後が更地になっています。
[神田小社めぐりとパレスサイドビル 2008年11月7日(金)]の続きを読む
  1. 2008/11/08(土) 13:33:13|
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神田小社めぐり 2008年11月4日(火)

神田学会のマップに出ていた稲荷マークを目当てに歩きました。
「不明の社」がマップに乗っていないので、網羅されているかは
わかりませんが、今回14社を巡り、6社を残すのみとなりました。

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豊川稲荷 神田鍛冶町1-9-5前


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御宿稲荷 内神田1-6-8


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佐竹稲荷 内神田3-10

佐竹稲荷神社の記 (*昭和五十一年)
 当佐竹稲荷神社は、此の地に江戸屋敷を構えた佐竹家
(秋田二十万石)が、藩邸の鬼門除けのため、寛永十二
年(一六三五)邸内の一隅に稲荷の神を勧請 建立し
たのに始まり 其の後天和二年(一六八二)の大火に
より一面焦土となり藩邸は下谷に移ったが 稲荷神社
は再建され 佐竹家の家紋「扇に日の丸」を社紋とし
火伏の守護神として江戸市民の信仰を受けてきた
 明治にいたり神社制度が確立されるや 無格社となり
其の祭祀は神田明神の神職が兼務し その護持は地元
有志に委ねられた 時移り大正十二年の関東大震災に
惜しくも灰燼に帰し 社有地は区画整理のため現在地
に移され社殿の再建をみたが 昭和二十年の空襲によ
り再び焼失の厄にあった 戦後の混乱期をへて復興の
曙光をみる 昭和二十六年に仮宮が造営され 昭和二
十七年には宗教法人により登記され 昭和三十年地元
地元有志の奉賛により 総檜一間社霊屋造りの本殿が竣工
し今日に至った



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大柳稲荷 内神田3-22-4左

ここで昼食。「室町砂場」で別製大ざる。


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不明の社(再訪)   神田東松下町45 神田金子ビル 公開空地
きょうは扉が開いている。


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一八稲荷 神田多町2-5


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真徳稲荷 神田多町2-4-3左


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和光稲荷 神田司町2-14-3和光堂公開空地


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松尾神社 神田多町2-11-31左


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伝統家屋 松本家住宅主屋 神田多町2-9

きちんと修復して使われているところがすばらしい。
みごとな淦の雨樋には <長 の屋号が残っている。


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通称神田猫ビル(神田鍛冶町3-5)前に江戸時代の礎石があるというのだが?
見当たらないよ。
 
[神田小社めぐり 2008年11月4日(火)]の続きを読む
  1. 2008/11/04(火) 23:00:20|
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神田から上野公園 2008年10月31日(金)

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伊勢丹発祥の地
東京市神田区旅籠町二丁目4番地(現・千代田区外神田1-5)
創業は明治19年11月5日。

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東叡山寛永寺林光院(上野公園15番9号)
ここから寛永寺の子院15院をめぐります。ほとんど情報がないので、
天台宗東京教区の解説をそれぞれに附載します。
◇ 当院は東叡山・寛永寺の子院です。 開基の宣雄大僧都は備前の国、 岡山の人で光珍寺の澄宣大和尚の下で修行に励んでいましたが、 当時、 江戸で評判の高い寛永寺を開かれた天海僧正の高徳を慕って江戸へ出て僧正のもとで修行する事が許されました。  寛永初期、 宣雄和尚は今のJR・鴬谷駅上の台地に草庵を建て林広院と名づけました。 慶安4年(1651)ご逝去の徳川家光公をまつる寛永寺の大猷院霊殿が建立されるにあたって当院の敷地が選ばれ、 西北の地に移転しました。 当時の林広院は埼玉・忍(おし)の城主、下総守・松平忠弘公の宿坊で公は宣雄和尚への尊崇の念厚く、 草庵を改修し僧糧100石を寄進されたり、 その他多くの業蹟を残された方で、当院の歴史上、 忘れることのできない篤信者であります。  宝永2年 (1705) 7月、 輪王寺宮・公辨法親王のご推薦により、 当院は六代将軍・家宣公のご生母、 長昌院殿の霊廟の別当寺と定められ、 450 石を賜りましたが、 時の住職、 第四世・智顕和尚は従来の寺名、 林広院を法華経序品 「處林放光」 の偈文に基づき、 現在の名称、 林光院に改めました。  宝永6年 (1709)、 当院は公辨法親王の命により6年ぶりに大改修が行われ、 正徳2年 (1712)、 公儀により再び官租 100 石が加増され、 併せて 550 石となり栄えましたが、 慶応4年 (1868) 5月の戊辰の役で寛永寺の諸堂宇は大半が焼失し、 各子院は縮少や移転を余儀なくされました。  明治 35 年 (1902)、 上野桜木町 48 番地に移った当院は更に大正4年 (1915)、 同町9番地に移転、 後に輪王寺門跡になられた当時の長沢徳玄住職建立の新院宇は惜しくも昭和 20 年 (1945) 3月の東京大空襲により全焼しました。 第2次大戦後は寛永寺住職の住居寺である上野公園の凌雲院にしばらく仮寓しましたが、 昭和 25 年 (1950) 8月、 現在地に先代住職が木造で再建の後、 平成元年(1989) 11 月、鉄筋コンクリート総2階建ての現本堂や庫裡などが完成、 今日に至っております。 これもひとえに檀信徒の方々の浄財御寄進のお陰であります。

本尊 阿弥陀如来 (旧・大慈院本尊)
脇侍 観世音菩薩 勢至菩薩

○文化財史跡
林光院の表門
 当院の表門は江戸時代、 諸大名が江戸に居住するために幕府が与えていた江戸藩邸の門のひとつで、 もと徳島藩の某大名 (25万7,000 石) 所有の中屋敷御庭仕切門で昭和30年、 当院に移築したものです。  仕様は総欅造、 銅板葺、 平唐門、 平面は四脚門で側面に唐破風をつけています。 主柱は円柱上部粽柱、控柱は方柱面取上部粽付、 ともに礎石建ちです。 主柱間は内法貫虹梁形、 頭貫木鼻付でつながれ、 主柱、控柱間は腰貫、 飛貫、 頭貫でつないでいます。 中備に波形の蟇股を置き、 男梁上では主柱に笈形をつけています。 唐破風の兎毛通は牡丹の彫刻とし、その上の拝みには若葉と○の中に卍 の飾金具があります。軒は一軒疎輪垂木で両脇壁の上部櫛型連子窓は現本堂完成の際に復元しました。


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東叡山寛永寺寒松院(上野公園15-11)
◇ 寒松院は、 文化の森・芸術の森として知られる上野公園の一角にあります。
 寺名の由来は、寒松院開基である津藩主・藤堂高虎公のご法名をそのまま寺名にしたものです 。高虎公はもともと他宗門の方だったのですが、徳川家康公が75歳の生涯を終えられようとしていたときに、高虎公の手を取って「あなたがいなかったら天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝しています。ただ、心残りはあなたと私とで宗門が違っているため、来世の浄土が違ってしまいます。それを思うと辛く寂しい」と涙を流されました。それを聞いた高虎公も涙を流し「私はまったく至らない者ですが、上様と同じ天台宗に改宗いたします」と即座に得度をし、「寒松院」の法名を戴いたのです。このとき法名を授けたのは、家康公が篤く信頼していた天海大僧正でした。
さて、高虎公は現在の上野動物園から東照宮にかけた場所に下屋敷があった大名であり、家康公を祀る上野東照宮が建立されたときに、江戸市民が参詣する際の便を図って屋敷地を献上しました。同時に寒松院を東照宮の別当寺として建立したのです。寛永4年(1627)のことでした。
その後、寒松院をはじめとする寛永寺の諸堂は、明治元年(1868)戊辰戦争の際に彰義隊の立てこもりにより、多くが焼失しました。跡地は上野公園となり、寒松院は明治21年(1888)現在の寛永寺の裏手に、境内360余坪の寺院として移りました。 しかし昭和20年(1945)には太平洋戦争の戦火に遭い再び焼失、現在の場所で再建され、今日にいたっています。
ちなみに高虎公の霊は、 上野動物園の旧正門を入って正面、 石塀をめぐらせた一角に藤堂家の墓所 (非公開)があり、その中央に眠っています。また、一説によれば「上野」という地名も、高虎公の城地である伊賀上野からつけられたと言われています。

○文化財史跡
藤堂家墓所 (台東区有形文化財)
宝篋印塔型墓石 (供養塔を含む) 14 基
灯籠12 基


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東叡山寛永寺真如院(上野公園15番17号)
◇ 当院の歴史的正式な資料は明治10年当時の東京府へ提出した寺院書上書に依るものです。
 武蔵国豊島郡上野桜木町四十番地。
 府下上野桜木町。
 一、 寛永寺々中 天台宗 真如院
   開基 権僧正 豪俔
 比叡山雙嚴院より、 寛永三年、 紀伊国主徳川頼宣当院を創建するに当り、 転住したものです。
 慶応4年5月15日彰義隊の戦争により焼失、 後明治5年に再建、 大正3年桜木町九番地へ移転、 紀伊徳川家の寄付に依り復興したが、 昭和 20年3月 10日の米軍大空襲により、 一坊を焼失しました。昭和 24年上野桜木町八番地へ移転、 平成元年に一応の復興を見ました。

○文化財史跡
1. 北白川宮能久親王建立銘のある、 地蔵様の石仏一体、 (明治 15 年)
2. 元禄年間の銘のある、 庚申様の石仏
(高さ1m 50 ㎝) 一体


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東叡山寛永寺福聚院(上野公園15番号)
◇ 記載なし。

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東叡山寛永寺吉祥院(上野公園15-21)
◇ 寛永寺山内寺院の一。 寛永初年、 権大僧都詮長の開基、 檀越水戸藩始祖、 徳川頼房の寄進により創建される。 以後、 水戸侯及び讃岐松平家を宿檀とし幕末に至るも戊辰の役に兵火にかかり、 後に、 再建を許され現在地に移る。

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東叡山寛永寺泉龍院(上野公園15-23)
◇ 寛永寺山内寺院の一。 寛永年間初期、 権大僧都慶倫の開基による。
 松平若狭守康信 檀越となり当院を建立するも、 その後、 寺地は山内を変遷し、 ことに元禄十一年の 「勅額火事」 の後には、 俗称 「下寺」 の一画に所在し、 さらには、過ぐる戊辰の役 (上野戦争) において、 彰義隊の宿営たるをもって消失し、 後に再興がかない、 現在に至る。
本尊 阿弥陀如来 (室町期)
寺宝 (伝) 恵信僧都筆 二十五菩薩来迎図他を有す



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東叡山寛永寺修禪院(上野公園15-)
◇ 記載なし。

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東叡山寛永寺春性院
記載は以下のみ。
◇開  創  延宝8年 (西暦1680年)
◇本  尊  阿弥陀如来


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東叡山寛永寺現龍院(上野公園15-25)
◇寛永寺山内の子院の一つとして、 権大僧都什誉師が創建した。 開基を真岡藩主の稲葉佐渡守正成とするため、 寛永初年の創建とされているが、 実は前夫人の春日局(三代将軍家光の乳母)が天海僧正とはかって、 正成を弔うために新規に建立した寺だと考えられる。 春日局と天海僧正はかねてより昵懇の間柄であり、 こうしたことから、 僅か2万石の正成の法名を天海僧正自からがつけて、 春日局が一院を建てたと見るべきであろう。  開基の什誉は千葉三塗台 (長福壽寺) の学頭を兼任した学僧であった。  第三世の亮伝大僧正は、 初名を泰と称し、 天海伝の内の 「泰伝」 の著者でもある。 又、 師は当代随一の碩学で、 慶安4年の家光の死に殉じた老中堀田正盛、 阿部重次の両者をはじめ、 内田正信、 三枝守恵らの人々が、 当院への埋葬と亮伝師の引導を望んだのも道理である。 このことは、 春日局縁りの堀田家の仲介と思われるが、 亮伝師の奔走の結果、 この未曽有の願いは入れられて、 今日に残る殉死者の墓ができた。 亮伝の実力の程が窺える話である。  その後、 元禄九年、 宝永六年、 明和九年にそれぞれ罹災したが、 その度毎に復興された。 創建の地は現在の当院墓地の一帯で、 享保五年に山下の下寺通りに移り、 戊辰後は谷中の浄名院裏をへて、 大正三
年現在地に定着した。  歴代住職には高僧が多く、 学頭として十一代将軍家斉の葬儀を主導した鈴明大僧正、 執当の鈴然僧正、江戸城紅葉山別当の公副僧正、 天台宗参務から臨時宗務総長をへて、 東叡山輪王寺門跡、 寛永寺住職となった浦井亮玄大僧正などがいる。


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東叡山寛永寺等覺院
◇記載なし。

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東叡山寛永寺東漸院(上野公園16-3)
◇開  創  慶安2年 (西暦1649年)
◇本  尊  薬師如来
◇ 慶安2年 (1649) 水谷(みずのや)伊勢守勝隆が権僧正宣祐の為に小院を構えました。 宣祐の素志が 「東来弘法」 であるによって、 「東漸」 を院号としました。  同4年徳川三代将軍家光の影殿新建の命があり、 別当寺となりました。別当料として 1,370 石を給せられました。 後、 文恭院殿 (11 代) の別当も兼ねて、 更に供米 700 俵を加増されました。 元禄 11 年 (1698) 火災に罹り再建、 宝永6年 (1709) 再火、 又重建されました。  慶応戊辰年 (1868) 変革の後公園地となり、 院宇を取除かれ、 明治9年 (1876) 上野桜木町に地を得、同 22 年 (1889) 更に同町 16 番地に寺宇を改築しました。 大正4年 (1915) 上野桜木町9番地に移転改築しましたが、 昭和 20年 (1945) 3月 10日の空襲で全焼しました。  昭和 22年 (1947) 桜木町7番地の廃寺となった旧宝勝院建物を与えられ、その後増改築をして現在に至りました。


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東叡山寛永寺元光院(上野公園16-24)
◇開  創  寛永年中 (西暦1624~1643年)
◇本  尊  阿弥陀如来
◇ 寛永2年に徳川幕府に依って寛永寺が創設され伽藍が整備されると共に、 有力大名等の力を得ながら、寛永寺の子院数も増加し一山としての形態を整えていく。 元光院もその子院の一つとして、寛永年中に創設された。  開基は、 権僧正長清である。 長清は 15 歳で、 浅草東光院詮長から、 薙髪を受け、 慈眼大師の弟子となる。 18 歳で、 備前守神尾元光公の給資を得て、 比叡山で修行をするが、 22 歳の時に、 慈眼大師に召還され、 神尾元光公の助力で現在の東京芸術大学の敷地に自ら元光院を創建した。 元光院の寺号は、 この創立者の神尾元光公の名前に由来する。  寛永寺の諸堂及び子院の多くは、 度重なる江戸の大火地震の類焼等から、 上野山内を転々としているが、 当院は江戸時代を通して、 創建当初の芸術大学の敷地を遠く離れることはなかった。  大正3年に現在地に移転改築をする。  今の元光院は、 鴬谷駅から、 両大師に至る中程にある。 現在十九ケ院ある子院のうち、 江戸時代の約二子院の境内地に十三子院が隣接している。  春には、 鶯の囀りが聞こえ、 かつての寛永寺境内地は、 上野公園動物園博物館など、 文化施設が建設され行楽客が多くおとずれる名所である。


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東叡山寛永寺覚成院(上野公園)
◇開  創  寛永11年 (西暦1634年)
◇本  尊  薬師如来
◇ 覚成院は寛永寺の子院の一寺にて、 現在は国立博物館の東側に他の子院 14ケ寺と共に位置します。 当院は寛永 11 年 (1634 年) 雅楽頭、 酒井忠世公が、 開基忠俊に帰依し、創建されました。以降歴世檀信となり、 百石の邑を寄せて永く資糧を賜る。 又宝永元年 (1704 年) 式部大輔榊原政邦公檀越となり、 20 人扶持を歳々賜る。 正徳3年 (1713 年) 信濃守小笠原長圓公又檀越となり 15 人扶持を歳々賜る。 又寛延元年 (1748 年) 大久保、 田沼、 両侯新に檀越となる。 やがて幕末を迎え、 慶應4年 (1868 年) 5月 15 日戊辰戦争 (彰義隊の戦い) により当山は戦争の巷となり、 当院も焼失し一朝烏有に帰す。  その後明治 18 年上野桜木町 28 番地に再建、 同 35 年桜木町 47 番地に移築する。 更に大正3年9月、 現在地に移築する。 その間、 関東大震災、 第二次大戦には災害を免れ今日に至ってます。
年 中 行 事
両彼岸盆法要


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東叡山寛永寺見明院(上野公園16-18)
◇開  創  寛永末年 (西暦1640年代)
◇本  尊  千手観音 (立像)
◇ 東叡山 寛永寺の子院
 盛憲僧正により創建される。 肥後守保科家が檀越となるが、 元禄11年罹災により焼失するも、 保科守重により再建、 後保科家祈願所となる。 明治5年桜木町に移轉し、 明治23年に亦移建する。 大正3年上野桜木に移轉改築するも、 昭和20年3月の戦災により焼失する。 昭和23年寛永寺より本尊千手観音を迎えて現在の地 (上野公園) に再建する。  昭和28年広尾島津家上屋敷より本堂を移轉改築する。


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東叡山寛永寺本覚院(上野公園)
◇開  創  寛永14年 (西暦1637年)
◇本  尊  釈迦如来
◇ 本覚院は、 江戸城内紅葉山山王社移転に伴い、 東叡山寛永寺子院・山王社別当として寛永 14 年 (1637) に創建されました。  それまで江戸城内の鎮守として城内に祭られていた紅葉山山王社に代えて、 東照宮をもって江戸城の鎮守とするという三代将軍家光公の命によって、 旧山王社は寛永寺内に移転されることになりました。 その際、 寛永寺開基・天海僧正ご自坊を以ってその地に当て、 天海僧正の弟子であり、 又、 紅葉山山王社別当寺・城琳寺住職であった晃海僧正 (初代寛永寺執当) を住職とし、 肥後細川家が檀越となり、 山王社別当として本覚院が創建されました。



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墓地を通って寛永寺へ。徳川綱吉公勅額門。

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  1. 2008/11/01(土) 00:59:03|
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